ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

三九)四月十三日の陸奥国奏上にも、災星がしばしばみえ地震がしきりに起こるので、農民はおそれで逃亡し、胆沢・多賀両城の間でも物情騒然としているので、援兵を徴発して警戒すべきことがみえている(『続日本後紀』)。こうした陸奥国の動向を察知した鹿島神宮司は、しきりに起こる天変地異を鹿島苗育神の崇り、物の怪の所為と声を大にして喧伝した。そのしつえき後、天候不順のために起こった疾疫流行の原因を占った神宮司は、も苗喬神の崇りと判定している。しかし、陸奥国の天災地変や疾疫の鎮静を願って朝廷が奉幣したのは、鹿島神宮ではなく伊勢神宮であった。『類衆三代格』にみえる嘉祥三年(八五O )と天安三年(八五九)の太政官符によれば、天平勝宝年中(七四九i七五六)に修行僧満願(万巻)が鹿おおむねちよし元宮司従五位下中臣鹿島連大宗、大領中臣連千徳らと鹿島島に到来し、神宮寺を建立した。満願は大般若経六OO巻を写し、仏像を画いて住持八年、鹿島神が感応したので満願は寺を去った。その後すでに年久しいが、住持の僧もなく伽藍も荒れ果てたが修理の費用もない、とある。はこね「宮根山縁起」では、満願が鹿島神宮寺を建立したのは天平勝宝元年(七四九)とする。蝦夷征討が始まると、鎮護国家を意図して陸奥田と境を接する常陸・下野両国の山や水辺に来往する修行僧がいたのである。蝦夷征討をめぐってそうした動きに呼応した鹿島神宮の中臣鹿島連大宗や郡司中臣連千徳は、満願を招いて神宮寺を建立し、神仏両面から鹿島神宮の威力を発揮しょうとしたのである。しかし、蝦夷征討の終了によって、神宮寺の維持は困難となり、伽藍は荒廃したのである。大生神社は、潮来町大生に鎮座する古社である。第6章大生神社と鹿島神大生の地は『常陸国風土記』に、天武朝に建部室許命という人物が大生の里に住んでいたことがみあうかおかぎきえる。また、大生の村の名は、倭武天皇が相鹿の里の丘前の宮においでかしぎやのとき、食事を用意するための炊屋舎を浦辺に造り備え、小舟を並ぺつあんざいしよおおいないで橋とし、行在所に通うようにした。その大炊の義を・汲んで、大生の村と名づけたとある。『和名抄』にも行方郡に大生郷を記している。『新編常陸国誌』巻五には、大生神社「郷祭神健御雷之男神、相伝フ景雲中大和春日ニ奉杷シ、大同元年帰坐ス、慶長七年徳川政府、社領三れ十九石ヲ付ス」としている。大生神社所蔵の明治七年(一八七四)十一月の棟札にも、つぎのような由緒書がみえる。御鎮坐しこと神代の大古昔なり、神護景雲二年和州城上郡春日の里に御選幸、大同元年二月十一日藤原氏東征御護として此里に御遷還、同二年同国見目の浦当鹿島郡に御遷幸の御跡を別宮と御称し大御神の分け御魂を斎き奉りき。また、大生神社と関係が深い鹿島神宮社家の東家所蔵の「羽入氏書留由緒」に平城天皇之大同元年東夷退治下向御時藤原棟梁左大将天児屋根尊下向勅使也大明神同心有一下着一比時天児屋根尊嶋崎大生宮左大将得ニ帝勅一有二宮造一天児屋根領知帝ヨリ尾野詰二千五百疋斎宮峨据面板久辻中居大生宮領知八十町代大洲八町跡社葺替今之鹿島大生宮ヨリ御遷大生宮ワ大同元年今之鹿嶋者大同弐年極月廿七日御選也と記されている。さらに「ものいみ書留」には、平城天皇大同元年に東夷退治のため左大将棟梁卿勅使として関東下向にて候、}の時大明神御加護のため春日社よりかしまへ還幸なされ候事棟梁卿嶋崎大生村において宮作りし給ふにより大明神大生社は御遷座され候依て大生社のさいれい今の本社とどうぜんに代々の187