ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代Eおものいみよりつとめ来りし事188一同じ御時に天児屋根領として官庁部二千五百疋措伽蹴議岬哨岬唯一候斎宮領として板久辻中居の庄、大宮領として八十町跡宮ふかき料として大州八町を口くたされ候大同二年極月廿七日に大生宮より今のかしまの本社へ御遷座に円U帰伏のおちかひゆへ同寺のうしとら高間原に宮作りを御定め候事とみえる。いずれも、鹿島神宮は大生神社より遷座したと伝えている。しかし、社鹿島神宮側には、そうした伝えはみられない。中世に大生の地が鹿島神神宮の神領となっているので、神宮と大生神社の結びつきが生じたのであ生ろう。また大生神社は東禰宜家や物忌家とも特別な関係にあったので、大大生神社と鹿島神宮を結びつける由緒書が作られたことが考えられる。おう陪うたいこれに対して、大生神社は大和国十市郡飲富郷にあった神社を奉戴し第1 -76図たオフ(意富、飲富、多、大とも書く)一族が、常陸に移住して杷ったとする説がある(大場磐雄「大生神社の考察」『常陸大生古墳群』)。また『常陸国風土記』に、「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処を合せて、惣ぺて香島の天の大神と称ふ」とある「天の大神の社」を「天のオホの神社」と解し、多氏一族の氏神の称としているが、そうした解釈はできない。鹿島社は物部氏や中臣氏と関係があり、大化改新以後は藤原氏の氏神とされており、多氏との結びつきを示す直接の史料はみられない。大生神社が『常陸国風土記』編纂のころ、大生の里に鎮座していたら、関係の記事があったことであろう。ただ、大生の地に築造された前方後円墳や円墳の大古墳群の存在は、}の地域に霞ヶ浦の水運を支配する豪族が居住していたことを物語っている。