ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第二節天台宗の活躍稲作にもっとも必要なのは瀧紙用水である。関東日光連山と天台宗鬼怒川、那珂)1平野の瀧瓶用水には、利根)1久慈川などの支流が利用された。水源地は、那須岳、男体山、赤城山、榛名山など上野、下野の地にある)れらの河川の山々であった。水源地の山々には神が杷られ、稲作の豊熟が祈念された。きりこだままがたまてづくね男体山頂遺跡からの二神二獣鏡、切子玉、勾玉、手担土器の出土は、そのことを物語っている。とくに男体山に対しては奈良時代の末ごろ、ふだらくしようどうる補陀洛の地として、宣伝する修行僧勝道があらわれる。その縁で日光ふたらへんじようの山の神を二荒の神と称するようになる。空海の詩文を編集した『遍照はっきせいれいしゅう一発揮性霊集』巻二の「沙門勝道が補陀洛山に上る碑」この山を観音の浄土であによると、勝道は補陀洛山(男体山)になんども登頂を試みている。男体山は陸奥国と境を接する霊山である。勝道は神護景雲元年(七六七)第一回目の登頂不成功のあと、天応元年(七八一)の第二回目の決行まで一四年間の空白がある。蝦夷征討をめぐって第二回目も失敗すると、聞を置かず第三回目の登頂を試み、延暦元年(七八二)ついに成功する。延暦三年(七八四)には、第四回の登頂をし、中禅寺湖畔に神宮寺を建立している。勝道が登頂を急いだ天応から延暦にかけての時期は、蝦夷征討が海道方面から蝦夷の本拠地である胆沢方面に移り、内陸山岳地帯の攻防戦が第6章展開されていたのである。勝道の男体山登頂は、征夷の修法と関係があるのではないだろうか。征夷の修法を思わせるのが、男体山頂遺跡の出とくに注目されるのは、奈良時代から平安時代初期の奉ふんぬがたさんこしよしゃくじよう費品である。鏡、念怒型三鈷杵、古式の錫杖などは、土造物である。正倉院宝物にも匹敵する国家的水準の珍宝だといわれる(大和久震平『古代山岳信仰遺跡の研究』)。こうした珍宝が奉要されているのは、征夷の戦勝祈願の要請が朝廷からあったにちがいない。『二荒山碑』に「去りぬる延暦中、柏原皇帝、之に聞しめして、便ち上野国の講師に任、ずる」とあるのも、勝道の征夷の祈願に応じたものであろう。ところで天応二年(七八二)三月の登頂に際し、勝道は「諸の神おおんため祇の奉為に経を写し仏を図し」たという。このことは、修行僧満願が天平勝宝年中(七四九i七五六)に鹿島神のために神宮寺を創建し、大般若経六OO巻を書写し仏像を図画したとあるのに結びつく。勝道は延暦三年(七八四)、中禅寺湖のほとりに神宮寺を建立して四年間の修行をするが、徳一も延暦末年か大同初年に東国に下り、会津に恵日寺、筑波山に中禅寺を建立し、蝦夷鎮定の修行をしたのである(高橋富雄『徳一と最澄』)。えんにん『円仁和尚入当山記』には、下野国生まれの慈覚大師円仁が嘉祥元年(八四八)四月、二荒山を訪れて経典や仏異を施入し、薬師堂や山王権現などを建立して、比叡山の趣をこの地に移した、という伝えを記している。このときから日光連山は、天台宗と深いつながりをもつことになったといわれる。天台宗の祖最澄は、鎮護国家と五穀豊穣による万民安楽を悲願としていた。最澄は鎮護国家と五穀豊穣を祈念するため、六所宝塔の発願とぷぜん『守護国界章』の著作を行っている。六所宝塔というのは、上野、豊前、ち〈ぜん筑前、下野、山城、近江の六国に、それぞれ安東、安南、安西、安中、安総の祈りをこめた安国のための宝塔を建て、千部の法華経を納め、189そ