ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

天台宗には最初から仏神あげて国家を鎮護し、常陸固と天台宗に風雨時に応じて五穀豊穣を祈念する思想があった。さら}の性格が天台宗の流れをくむ常陸国の山岳寺院にもたらされたのである。また安東・安北を鎮護するという思想は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて大規模となっていく蝦夷征討と結びつくことになった。とくに征夷大将軍坂上田村麻呂による大討伐の成功は、常陸・陸奥両国の天台宗寺院や神社の創建を田村麻目に結びつけ、霊験を誇示することになったのである。両国の天台宗寺院や神社の建立年代が、大同元年(八O六)、大同二年とするものが多いのも「清水寺建立記」に、陸奥国在任中の田村麻呂将軍内大同元年十一月二十七日付である(高橋崇『坂上田村麻呂』)。の書状で、清水寺に氏寺の建立を願ったとあるのが元になっているようかつて、北茨城市磯原町上相田にあった軍中山音徳寺は、『開基帳』蝦夷征討をめぐって第6章鹿島神宮寺経塚出土錫杖頭第1 -78図によれば浄蓮寺の門徒で、慈覚大師が貞観八年(八六六)に六所明神を再興し、周年将軍地蔵堂を造立したとある。「将軍地蔵」は「勝軍地蔵」えんちんのことである。『元亨釈書』巻第九の清水寺の僧延鎮列伝に、つぎのような話がみえる。延鎮が清水寺で田村麻呂将軍に会った。将軍は勅を奉じて、奥州の逆賊高丸を征伐に行くことになっていた。そこで延鎮に「私は天皇の詔をゐつけたまわり、夷賊を征伐に行くが、もし法力をかりなければ、どうしてありがたく命を受けることができようか。どうかそのための意を加えてほしい」といった。延鎮は承諾した。将軍は奥州でび〈賊と鋒を交えたが、官軍は矢がつきてしまった。そのとき、小比丘と小男子が矢を拾って将軍に与えたので将軍は不思議に思った。やがて高丸その首を都に献じた。将軍は延鎮に会い、どんな修法をしたのぴしやもんか、とたずねた。延鎮は「勝軍地蔵と勝敵枇舎門の二像を造って祈ったを倒し、だけだ」と答えた。将軍は二人が矢を拾ったことを話し、仏殿に入って像をみると、矢きずや万きずが像についており、脚にも泥土がついていたので、将軍は大いに驚いたというのである。したがって、軍中山音徳寺には、田村麻呂将軍をたすけた勝軍地蔵の縁起が語られていたことになる。またその背景には、田村麻巴将軍の蝦夷征討に天台宗の修法が深く結びついていたことが知られる。軍中山音徳寺を門徒としていた浄蓮寺は、猿田山浄蓮寺とよばれ北茨城市華川町あずはたかい小豆畑にある。縁起によれば、大同年中(八O六1八O九)慈覚大師の開びゃく聞するところという。また北茨城市関本町福田の朝田山中山寺の存在も重要である。元は関本上村にあったが、焼失後村内の中山にうつした。古棟札によれば和銅元年(七O八)善通院草創、天長二年(八二五)慈覚大師の建立といわれる。おそらく平安時代にさなこそのせきかのぼると思われる。常陸国と陸奥国の国境にあたる勿来関の南側に位この天台宗寺院の開山は、191