ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代E置し、境界寺つまり陸奥と常陸の国界寺の性格があったのではないだろ192うか。常陸や陸奥国に法相宗を広めた徳一は、承和九年(八四二)ころに没したらしい。徳一没後、退潮した法相宗に代わり最澄の説く安東、安北の護国のために、国墳の地に中山寺が建立されたのであろう。つぎに常陸国の天台宗布教に活躍した僧に、最仙の名があげられる。『元亨釈書』巻第一四の最仙法師伝によると、最仙はかつて、常陸国の講師をつとめ、戒行を充分につんでいたので、帰依する人が多かった。寺院や堂字を修造し、道を聞き橋をかひでりけ、人びとの危急を救った。早にあえば、請いを待たずに雨乞いの西蓮寺山門しばしば感応があった。病人を見舞い飢えた者たちに食ひ物をあたえたので、命をながらえた者が多かった。人びとは彼を悲ぞうだいこじ増大居士と号した。修法をし、とある。『本朝高僧伝』には、「常州西蓮寺沙門最仙伝」とみえ、常州講第1 -79図師に任じ、延暦元年(七八二)、西蓮寺を常州行方郡に建て教法を弘めたという。『新編常陸国誌』巻七には、西蓮寺は桓武帝の勅願により、伝教大師の弟子最仙上人が閉山したとみえる。真壁郡椎尾村(真壁町)の薬王院も桓武帝の勅願所で、薬師堂の横額に「桓武天皇勅願所最仙上人開基」と記されているといわれる。これらの伝えによると、且取仙は延暦のはじめに、常陸国の講師となって赴任したようである。講師というのは、もと国師とよばれ国司とともに管内の寺院、僧の管理や指導にあたった。延暦十四年(七九五)国師を講師に改めている。講師は自分の所属する宗派の宗旨を宣教したので、その影響は大きかった。たとえば慈覚大師円仁についで、第四代天台座主一となった安恵が承和十一年(八四四)、出羽国の講師になって赴任したゆいしさしゅうとき、出羽国内の人びとはみな法相唯識宗だけを学んで、天台宗のある