ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代第三節常陸平氏の進出E九世紀半ばから末期にかけての坂東の地には、風雨、水早、地震などの天災地変が頻発し、人びとは疾疫と飢餓に苦しんだ。そのうえ貞観の末から元慶期の初めにかけて、常陸・下総両国は夷倖(帰服した蝦夷)の反乱に高望王の東国赴任よって緊迫した状態におかれたのである。貞観十七年(八七五)五月、下総国の倖囚がそむいて官寺を焼き、良民を殺して財産を略奪した。下総国の官兵と常陸、武蔵、上総、下野などの国が各兵三OO人を出動させて鎮圧にあたったが、停囚は下野国にまで侵入しやっと鎮定されたのである。このことは、治安を維持する力が弱く、下総国におきた反乱がたちまち常陸、下野の一帯をまきこんでしまおっことを教えており、やがておこる将門の乱の規模を暗示している。元慶二年(八七八)三月、出羽国におこった夷停の反乱は、陸奥、上野、下野の諸国から兵を出して鎮定にあたり、相模、越中、越後の諸国から綿・米などの物資を出羽に送っている。}のとき常陸国では、危機に応じて出動できる兵士五O人を待機させたにすぎない。出羽国司は常陸・武蔵両国合わせて二OOO人の援兵を増派願いたいと奏言しているが、これらの援兵は派遣されなかったようである(『三代実録』)。元慶三年二月に常陸国司らか圏内の損田を言上しているのをみると、常陸国では風雨・水早・疾疫による農民の疲弊や田地の荒廃が著しく、このときの出羽出兵に応ずることができなかったのである。元慶七年(八八三)には、上総国でも倖囚三O余人が蜂起して官物を盗み取り、人民を殺したので、一OOO人の兵士を発して討伐させたが、容易に鎮圧することができなかった。武蔵国でも貞観三年(八六一)、「凶滑党を成し、群盗山に満けびいしつ」という状態なので、郡ごとに検非違使を置いて盗賊を取り締っている。貞観九年(八六七)には、上総国でも群盗が蜂起したので、国検非違194使を置いて治安を維持しなければならなかった。このような、群盗蜂起の坂東の治安を維持するためにやってきたのが、たかもち桓武天皇の曾孫高望王である。高望王は寛平元年(八八九)、平朝臣の姓を賜わって臣籍にはいり、上総介に任ぜられて赴任した。この間の事情を『常陸大嫁伝記』は、つぎのように伝えている。寛仁(平)元年十二月十三日、民部卿宗章朝臣、帝位を傾け奉らんとせいひつして、天下の乱れし時、官一旨を蒙りて宗章を追罰し、国土静誼、天下泰平、人民安平、国家安全を成す。此の故に帝御感有り。同二年五月十三日、初めて平姓を賜う。従二位上総介に成り給う。高望王が帝位を傾けようとした民部卿宗章朝臣を追罰したというが、内容は明らかでない。しかし、高望王の子孫である常陸大援氏は、族の任務が国家への反逆者を討伐し、天下泰平と国家安全の維持を自負していたことがわかる。また高望王の子国香などが鎮守府将軍に任ぜられているのをみると、常陸大援氏の任務は坂東の治安維持だけでなく、奥羽の鎮定にもかかわっていたことになる。高望王は国司の解任交代の後も任地に土着して、広大将門の乱な私有地を開墾し、東国に勢力を築きあげた。長男の国香は常陸大嫁に任ぜられて常陸に土着し、国香の弟良兼は下総介、同じく良持(良将)も下総国に私有地を領し、在地との結びつきを強めていた。また良文は村岡五郎ともよばれ、武蔵の開発者として勢力をふるった。