ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

坂東諸国に国司となって赴任してきた源氏、平氏などの賜姓皇族ゃ、藤原氏の分流が国司の解任交代の後も任地に土着し、職権と声望を利用して未開発地を開発し、私有地を経営し下人や農民など多くの従者を率いて私兵を養い、土豪として成長するのである。)うした背景には、常陸など坂東諸国を基地とした蝦夷征討が終了すると、これまでの征夷の負担や国家の重圧からにわかに解放されたこと、国家の関心が征夷から遠のくとともに、その権力もしだいに後退し、そこに反律令的な武士階級が生まれてくる基盤が醸成されていたのであろう。将門の父良持は、鎮守府将軍に任命され下総介にもなった可能性があいざわる。当時の鎮守府は陸奥田の胆沢にあり、将軍の任期は五年であったようである。このとき将門が父に同行して鎮守府に行ったかどうかは不明である。しかし、将門の兵力組織や戦闘方法に、蝦夷征討や停囚の鎮圧に用いられた軍制と作戦方式が取り入れられたのは事実である。たじひのよりとしおさだのまき記』には、平良兼の上兵多治良利、平貞盛の上兵他国真樹、Aんやのよしたつ兵文室好立がみえ、『将門平将門の上いずれも戦闘の勝敗を左右する活躍をしている。上兵は元慶二年(八七八)出羽の蝦夷が反乱をおこしたとき、征東将軍藤原やすのり保則が新しく軍制に設けた戦略担当の軍事専門家である。}の上兵の制蝦夷征討をめぐって良自度が陸奥国にも適用され、鎮守府にも置かれたことが考えられる。鎮守府将軍として赴任した平国香や良持は、この上兵の戦略を学んだり、あるいは作戦参謀としてつれ帰ったこともありうるのである。また、『将みもりいわい門記』に水守営所・石井営所とみえる「営所」も、蝦夷鎮定の拠点となのしろった出羽国の「野代営所」「秋田営所」などの営所を参考にして設けられた軍事拠点である。将門は若いころ上京して、藤原忠平に仕えたが、父の良持が早く死んだので下総に帰って、その領地をうけついだ。しかし一族の関係はおだやかでなく、承平元年(九三一)のころ、伯父の良兼と婦人や遺領の問題さきみなもとのまもるで争い、承平五年(九三五)、前常陸大援源護と戦い、姻戚関係で護をたすけた伯父の国香を攻め殺した。さまのじようで仕官し左馬允になっていたが、知らせを聞いて帰郷し良兼らとともに)のとき国香の子の貞盛は、京都将門と戦った。ごんのかみおきよおうつねもと天慶二年(九三九)、将門は武蔵権守輿世王と武蔵介源経基が、郡司武蔵武芝と紛争を起こしたので調停しようとしたが成功しなかった。その〈だらのさだっら後、新任国司百済貞連と対立した輿世王は、政府への不満をいだいて将はるあき門のもとに身をよせてきた。同じころ将門のもとに藤原玄明という人物が保護を求めてきた。玄明は常陸国盛(鎮守府将軍)たびたび195桓武平氏略系図暴のを住働人いでた租の税でを、滞常納陸し介藤徴原税維品吏幾Zには舌L桓武天皇||葛原親王←見王←望王(上総介)」兼(下香(常陸大嫁)|||貞追捕にのりだした。玄明は急ぎ妻子総介)||公雅(武守)蔵持(鎮守府将軍)||将ー良門をつれて下総に逃げる途中行方・河第1 -80図文(武守) |||忠茂(常陸少嫁)||ム艮介常用の穀物を盗みだした。常陸国で第6章蔵頼(陸介奥内両郡の不動倉に保存してあった非正(下総は下総国と将門に対して、