ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代文書を送り玄明の追捕を依頼したが、将門はつねに逃亡と称して協力しょうとしなかった。こうして、従来一族と争っていた将門の行動は、しだいにその性格を変えはじめた。同年十一月には、常陸国府に攻め入って焼きはらい、維かぎ幾を捕え国印と錨を奪った。さらに十二月には、下野・上野両国に進んEで国府を攻め国印を奪ったのである。朝廷では反乱の鎮まるのを神仏に祈願し、延暦寺は朝敵調伏のための祈祷に力をいれ、南都や京の諸大寺もこれにならった。ただぷみまた翌年、藤原忠文を征東大将軍に任命し、さらに太政官符を東海・東山の諸国に下して、賊首を殺した者には五位以上の官位と団地を与えて、永く子孫に伝えさせることを約束した。かし、征東大将軍が着く前に、平貞盛治宝下野押すこ領iれ使tが藤坂原東秀号の郷i地の方協豪力族をを得動て、将門を倒した。秀郷と貞盛は功によって、それぞれ従四位下、従五位下が与えられた。地方武士の反乱は、同じく地方武士の力で平定されたのである。この反乱は、武士の勢力がはじめて社会の表面に姿をあらわした事件であり、重要な意義をもつものであった。将門の乱においても、天台宗の僧の活躍はめざましかった。明達は延暦寺田王院や美濃国中山神宮寺で、四天王法を修して将門を降服させたえといわれ、天台座主尊意は大威徳法を修して将門を殺したと『三宝絵詞』に語られている。将門の乱の鎮定によって、坂東の天台宗は一層の発展をみることになる。これもと平維幹は将門の乱で活躍した平貞盛の子である。常陸平氏の発展説には貞盛の弟繁盛の子ともいわれる(『尊卑分脈』)。『常陸大援伝記』によると、維幹は「初めて当国にみもり住み、水漏の大夫と号す」とあり、「常陸大援系図」には、常陸大援、多気大夫また水漏大夫、平将軍と記されている。したがって、維幹は初196のちに筑波郡多気に移り、常陸平氏の本家となっさねすけたのである。維幹は長保元年(九九九)十二月に、藤原実資(小野宮右大みようぷ臣)に馬や名簿を送って臣従し栄爵を願っている(『小右記』)。め筑波郡水守に住み、『宇治拾遺物語』には、維幹が京都に訴訟で上ったとき、高階成順の娘を見初め、妻にして常陸に帰った。二女をもうけたが、やがて歳月を経て妻は死んだ。その後、維幹の妻の妹が夫の常陸介にしたがって常陸にやってきた。まもなく任期が終わって都に帰るとき、維幹は二女を遣わして館別を贈らせた。二人の娘はそれぞれ逸物の良馬一O疋ずっと、かわご皮子(革寵)を負った馬一OO疋ずつをおくつたので、常陸守(介)は維幹の娘たちの富裕に驚いたという話が記されている。}の説話から当時の維幹の強大な勢力を知ることができる。維幹は広大な私領を有し、その富力をもって京都の貴族たちに絹や馬を献上し、栄爵を願ったのである。『今昔物語集』巻二五には常陸守とe』れもとなった源頼信が下総国の平忠恒(常)を攻めたとき、「左衛門大夫平惟基ト云者」が三OOO騎をひきいて頼信の軍に加わったことがみえる。ためもと維幹の子が為幹である。覧仁四年(一O二O)のころ、維幹・為幹父子の勢力は強大で、常陸介を圧倒するほどであった。当時、為幹は父と同じく従五位下に叙されており、富力と権力をもって粗暴の振舞いが多かこれみちった。寛仁四年七月、紫式部の弟でもあった常陸介藤原惟通は常陸国府で死んだ。ところが惟通卒去のとき、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姦するという事件がおこった。惟通の母はことの次第を朝廷に訴えた。きのさだみつ朝廷では左衛門案主紀貞光を遣わして為幹を召喚した。ところが貞光は、藤原実資と示し合わせて上京した為幹になにかと便宜を与えている。十二月二十六日には、為幹に対して検非違使庁よりの召喚があったが、為