ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

幹は病気と称して出頭しなかったのである(『小右記』)。実資にしてみれば、為幹は自分に臣従した維幹の子であったから、格別の配慮を示したのである。維幹・為幹父子が日ごろから莫大な献納物を貴族たちに贈っていたことが、」の事件からうかがわれる。果たせるかな翌年二月には、改元にことよせて為幹を赦免する動きがあった。しかし反対もあり結局、為幹は約一年間、京都に留められ治安元年(一O二一)十二月二十六日に罪を許されたのである。為幹の子が重幹である。源義家の弟の新羅三郎義光は、重幹と姻戚関よし係を結んでいる。『尊卑分脈』や「常陸大嫁系図」によると、嫡男の義業に重幹の子清幹の女をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となる。また藤原為隆の日記である『永昌記』嘉承元年(一一O六)六月十日の記事によると、義光と重幹らの党が義家の三男で下野国足利荘を本拠にして勢力を伸ばしていた義国(新田・足利氏の祖)と対決し合戦をしている。朝廷でもこれを放置するわけにはいかず、義光および重幹らの党に対しては東国の国司に命じて召し進めさせ、義国については親父の義家をして召し進めさせたというのである。むねもとさだとう重幹の子が致幹である。『奥州後三年記』には、源頼義が安倍貞任を蝦夷征討をめぐって幹(鹿島三郎)国香(良望)1員盛|維幹為幹重幹|致「繁盛幹(常陸大縁) lム直幹い女子を生んだ。討つため陸奥国に下ったとき、多気権守宗基(致幹)の娘と旅の仮屋で逢さねひらその子が美女で清原真衡は、この女を迎えて養子の成衡の妻にした。ところがその婚礼の際におこった争いが後三年の役にましんびょうせいで発展したと記されている。『奥州後三年記』の史料としての信想性は低いので、事の真否には問題があるが、維幹と源頼信の結びつき、重幹と源義光の関係、致幹と源頼義の説話などから常陸平氏の本家が、L、ち早く清和源氏と親密な関係を結んでいたことが知られる。ところで、常陸大橡平致幹が大檀那となって奉納した経筒が、二個もは針室田で新治郡新治村の東城寺で発見されている。保安三年三一二二)のものに保如安法三経年書大写歳位寅壬蚕八願月主大日辰甲聖人僧明覚大檀越平朝臣致幹為口法界衆生平等利益所奉遂果知右営とあり、天治元年(一二四)のものには刻銘で、天治元年時融十一月十二日配つぎのようにみえる。義幹(良幹・多気太郎)幹(吉田次郎)斗盛幹(石毛荒四郎)T白山義(小栗五郎)「成幹(吉田太郎)イ幹晴|上仏幹|行幹一(吉田太郎)(吉田太郎)幹(行方次郎)4本幹l1」l幹明(石川次郎)一(谷田太郎)「資幹|朝幹(馬場小次郎)(馬場太郎)清正重第6章奉安置銅章一口常陸大嫁略系図行者延暦寺沙門径逼大檀那蔭子平致幹銀作三国将時また、天治元年銘経筒の中第1 -81図にあった「紙本墨書妙法蓮華経」に、「天治元年十一月日筆師僧慈意」の奥書があっ197