ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代Efこ}れらの経簡は鋳銅製で、明治二十三年東城寺経塚出土の経筒(一八九O)から二十四年にかけて新治村東城寺字薬師脇から出土したものである。経簡は末法到来の思想にもと第1 -82図づき、経典の消滅をおそれ経巻を納めて、経塚に埋めたものである。供養願主の明覚は延暦寺を出て加賀白山しつどん温泉にかくれた悉曇学けいせん僧明覚と同一人物といわれる(竹内理三編『平安遺文』金石文編)。径遣も延暦寺の沙門とあるので、ともに天台宗の僧である。平致幹の招きで、を自負する常陸平氏は、天台宗に帰依し、延暦寺から常陸に下向してきたのであろう。天下泰平と国家安全の維持その法力によって坂東の鎮護をはかろうとしたのである。平国香開創と伝えられる石岡市の平福寺も天台宗の寺院で、常陸平氏の菩提寺といわれている。また寛和二年(九F』んでい八六)、平貞盛の弟繁盛が金泥大般若経六O O巻を書写して、比叡山延あったことを示している(『平安遺文』第九巻)。暦寺に奉納しようとしたのも、常陸平氏と天台宗の結びつきが早くから致幹の弟清幹は吉田次郎といい、その三子は、吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田、行方、鹿島氏の祖となった。行方忠幹の子景幹は、行方郡地頭に任ぜられ、行方郡内に一大勢力を確198立した行方氏の基盤を作りあげるのである。