ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第一章鎌倉期の潮来第一節鹿島神領と潮来鎌倉期に至ると行方郡には、鹿島社の影響がさらに深く鹿島社領の展開と国街かかわることになった。それは北浦をはさんで神宮の対岸に位置しているという、地理的条件も重なり、神宮の色彩を強くうけていた。影響といえば、信仰・風俗など多岐に及んでいるが、現在そのほとんどは文献的に位置づけられない。わずかに伝承という形で伝わっている。}うした中で文献的に確認されるのが社領である。現在、鹿島社領の全貌を明らかにするまでに至っていないが、康永二年(一三四三)の「鹿島神宮領回数注文案」により、その大、ざっぱな分布状態はうかがい知れる。そして、大生、延方の名も、その注文にみえ、潮来町域も神宮領地の一部であったことが判明する。注文の面積は必らずしも正確とはいえないが、大生・延方は康永二年の「鹿島神宮領回数注文案」に「大生八十八丁一反半」「延方六丁八反大」とあり、社領内鎌倉期の潮来でも大きな面積を有していたことがうかがえる。}の他にも神領の存在していた可能性は強い。回数注文などにみえている「加納百四十六丁六反六十歩九丁三反三百歩最勝講田十丁毎月御供田毎夜御燈油田第l意七丁二反小」などの名称がそれである。}れらは具体的に地名が記されていないが、潮来町域の位置や社領の分布からして十分考えられる。そらく散在的に小土地片からなっていたから、いちいち地名を入れなかったかと思われる。これら社領が鹿島社へ編入されたのは、平安末期まで遡れる。文書によると保延五年(一一三九)、国街から寄進されたとみえる。その寄進の契機内金泥大般若経書写料所とあり、鹿島神宮による金泥大般若経の書写に際して、その書写に関する費用(料金)を捻出するためであった。このような国衝による土地寄進は大生、延方の他にも、麻生も同様に一緒に寄進されているが、さらに他にも、同様な背景のもとで社領化したものがみえる。このように、保延期には国街在庁による社領寄進がさかんに行なわれていたことがわかる。」の国衝による社領寄進の目的は、神宮神事の勤仕、鹿島社大禰宜中臣氏の社領支配経文書写および読請の依頼とさまざまだが、殊に金泥大般若経の書写は注目に値いする。そして、のような国街の社領寄進を促進させたのは何であったのだろうか。こ・フIUた中で、神宮と国街を結びつける動機内古代末期の政治的混迷とそれに基づく、地方の治安劣悪化にあったと思われる。国街と神宮の結びつく背景はあったと思われる。現在その具体的な例証をみいだせないが、少なくとも、神宮側で国街の社領寄進を働きかけたのが中臣則親であっおた。大禰宜であり、神宮の社領基盤を強化し、神宮の経済基盤の確立にこの様な中臣則親の動きは、古代から中世へ201貢献した人物と思われる。