ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

いたことが伺える。そしてそれらの所領はさらに子の二郎忠幹が引き継そして忠幹ぎ、忠幹は行方に居を構えた様で、行方氏を名乗っている。である。現在、はさらに土地の開発を進め、行方氏の基盤は少しずつ形作られていた様}の忠幹時代の行方氏の動向は他の文書によって確認でおおよそ律令体制末端につながる郡司職に関連するものと考きないが、えてよいだろう。に成長していく。こうして行方氏は、行方地方でしだいに安定した勢力」うした中で、景幹は父忠幹から引き継ぐと活発に荒野の開発を進め、行方郡中の一大勢力に成長した。景幹は平安末期の混迷時に、行方氏の経済基盤を固めたのである。鎌倉政権の発足にともな位を確立するのである。って、景幹は郡地頭に補任され、名実ともに行方郡の支配者としての地」うして行方氏は、地頭として潮来町域にも深い係りをもつのである。潮来の地を考える上に、少なくとも鹿島神宮の鎌倉期の潮来第l章島崎氏士局幹五壁幹氏玉造氏I幹政常陸大嫁氏(行方氏)系図第I -3図社家と行方氏は重要な位置を占めているといえよう。」のことは、行方郡の他の地域も基本的に同じであった。こうして神宮社家と行方氏の二勢力は、郡中の変遷に大きな影響を与えているといっても過言ではない。付言すればこの二勢力の関係が、郡中の歴史を形成しているといってもよいであろう。この二勢力のさて、関係はいかなるものであったろうか、残念ながら文書・記録がほとんどないことより、その具体的状態を明らかにするのは困難な状況である。わずかに神宮文書に土地支配に関する記述が残されているが、}の中に)の両者が行方郡中で、いかなる関係であったかわずかに物語る記述がみえる。この文書の語る所では、土地をめぐる両者のはげしい紛争の一方では神宮の神事・祭礼などに、相互依存している。行方氏は、神宮の神事・祭礼の支出(用途)に、徴税を請負うともに、自ら神宮の大祭などの大使役を勤使する経過が、長期に渡って展開したことがわかる。など祭事にも係わっている。}のように両者の関係は相互に多様な面をもっている。ただ潮来の地においては、さらに文書に限界があり後者の面に関しては全く不明である。}のため、土地に関する両者の関係をみていくことにする。平安末期の国家体制の衰退にともない、地方支配が大混迷すると、土地をめぐって種々さまざまな紛争が発生してくる。そして武家勢力の著しい台頭は」れら土地紛争をさらに複雑化させていった。此頃潮来の地においては、大生と延方がその様な土地をめぐる紛争の係争地として記録にみえている(鹿島神宮文書「摂関家政所下文」)。大生、延方などは、先述の如く保延五年の国衝の寄進にともなって神宮社領に編入され、神宮社家の経営下に置かれた。しかし、まもなく行方景幹が当地へ侵入してくる。この頃、地方政治の混乱と武家勢力の伸張により当地方に郡司203