ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
いるように、当時、頼朝と神宮の関係は良好になっていた。}の親広は神宮に崇敬の念を強くしていた頼朝に、紛争解決の望を託したのである。この親広の鎌倉政権への訴えは、文書中に「親広猶言上子細於右大将家之政所処」とあり、源頼朝の右大将在職は建久二年(一九一)のみであることからこの年のことと思われる。}の時、頼朝の政所からの判断は、景朝の不法行為を停止すべき下知が発せられ、今度も神宮側の勝利となった。こうして源頼朝の下知を受けて、今度こそ大生・延方・麻生などの神宮の経営が安定をみるかと思われた。しかし、今回も神宮側は非力を味わわされた。下知が発令されても行方景幹は、非法行為を停止それを強化するという状態であったとみえる。神宮からすると、神領への乱暴で神宮の神事も実施にことかくありさまと窮乏しないばかりか、状況を訴えている。当時、行方景幹は地頭にあたり、中臣親広は、大生、延方、麻生などの預所にあたっていたが、地頭と預所の得分をめぐる解釈の違いが、争点になっていた様である。その後、まもなく親広は、摂関家へ提訴に及ぶことになる、文書では、「御神領区中地頭景幹許不可取得分、預所巨多中仁親広許為彼不可被得分者也、恭為殿下之御沙汰早御使」とみえる。地頭景幹ばかり神領に得分があるわけで、預所の親広は地頭のため得分をえられないと嘆き、親広の真情が如実に伝えられて、i〉。、u daf-これらの訴訟に関して摂関家は、先例とこの前に発された前右大将家の下知状を指示し、預所と地頭の両方の紛争の早期解決を、国街鎌倉期の潮来役人と神宮の社司へ下した。紛争のその後の状況は残念であるが伝えられていない。ただ、神宮文書中の関白前左大臣家二篠道平政所下文に「加納十二郷者::然者云下地云所当、任先例井大生郷之例、可致沙汰第l章之旨、欲蒙御成敗」とみえ、加納十二郷の地頭との紛争に関して、大綱宜中臣良親は加納十二郷の決済を大生郷の先例になぞられることを摂関家二僚道平の政所に申し上げている。)れに対して文保二年(一三一八)十一月、二僚道平の政所から下文が神宮になされているが、}の十二か郷の処置に大生郷の先例を大綱宜側がもち出していることは、少なくともこの文保期には大生郷はそれなりに大禰宜側の経営上深刻な状態ではなかったと推測される。地頭側の圧迫がかりにあったにせよ、大禰宜側としてはそれに妥協できるような状況であったのではないだろうか。それだからこそ、大禰宜側では、大生郷における先例をそれなりに有利と認め加納十二か郷にも適用、したがって二僚道平の政所に要望したので+。ょ、〉、TJvfLカと考えてもよいのではないだろうか。大禰宜側に極めて不利な状況に追いこまれた例ならば、大生郷の先例をわざわざ他の社領の紛争の事例にあげる必然性はないのである。大禰宜良親は当時大生郷の経営をそれなりに評価していたからこそ}の様に先例として大生郷を取り上げたと考えてよいだろう。したがって、大生郷の紛争は、大禰宜中臣親広の摂関家九僚兼実家政所に訴状を提出して以来、それなりに行方景幹の横暴は緩和していたのではないかと思われる。ただ、具体的に親広が九篠兼実政所に提訴し、与えられた政所下文が、大生郷の紛争解決の直接の契機になったか否か定かではないが、少なくも、この親広の摂関家政所への提訴後、いずれかの時期に大生郷をめぐる紛争は何らかの形で落着したものと推測される。その落着は、神宮側で最終的に妥協可能な条件の範囲であったろう。そのことを裏付けているかのように、小牧、加納十二か郷、大枝郷をはじめとして他社領の訴訟関係の文書が、鎌倉期を通じて神宮および社家に蓄積していく中で、大生、延方郷に係わる訴訟関連の文書、記録類が皆無なのは、偶然、何らかの理由で伝存しなかった可能性も考慮する必要もある。同じ大禰宜家に関する小牧郷、大枝郷などが結構残存している事実を思うと、伝存しなかったのではな205