ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節元冠と大賀村大賀村と北条氏鹿島神宮領回数注文案(「神宮文書」『茨城県史料I』)によると、行方郡三三五町三反三OO歩の中に、大生八八町一反半、延方六町八反大の回数が記載されている。これら社領に該当する地域は、神宮関係文書などにその変遷を示す記述をとどめている例は決して多くはない。潮来町域に限っては、ほとんど社領の実態を継続的に示すものは伝来していない。そうした中で大賀地域は、多少なりとも社領としての当時の様相が辿れる。季、、~"。常設朗鎌倉期の潮来ま笠第l章強憲兵剥弘、鎌倉将軍家寄進状写(鹿島神宮所蔵)一‘ν、.第I -5図神宮領回数注文には大賀の地名がみえない。)れは、中世神宮社領が大きく二種類に類別されていることに関係しているからであり、記述にを有している。もれた社領は、記載されている社領に対して社領のもう一つの成立背景こうして大賀は、潮来町域の社領とは成立背景がことなったものである。記録からすると大賀が、神宮の社領下に編入される直中世接の契機は元冠(蒙古襲来)である。弘安五年(一二八二)十二月二十八日、鎌倉将軍家(惟康親王)は、異国降伏退散の祈祷料所として神宮へ寄進し中世編I』)の鎌倉将軍家寄進状写にみえている。ていることが、鹿島神宮文書(『茨城県史料}れが大賀地域と神宮が係わりをもっ契機であると日本に衝撃的な影響をうけた。考えられる。二度の蒙古の襲撃を受けた幕府は、北九州を始めとした西-9l l !\忠志h説明、aFF『'凶医"』・d“.‘‘、,句伶与すJ L lす(隙♂理こうした非常時に幕府は、西日本の御家、.(,、ヤJー、,第I -6図北条時頼害状(鹿島神宮所蔵)人を動員し、必死に防戦をするとともに、全国の寺社などに蒙古撃退の祈願をはかつてもいる。中央の大寺社でも勅命や幕府命で、祈祷が盛んに行われていることが記録にみぇ、常陸圏内でも神宮のほかに府中の総社が、正応四年(一二九一)三月七日、幕府より祈祷の依頼を受けており正安三年(二ニO一)十二月二十三日に祈祷を実施した旨を示す巻数を幕府で受理との書状が、幕府から総社に発給さ207