ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世れている。}のほか、県西の寺ゃ、神宮護摩堂そして玉造の西蓮寺にも元冠関係の動きが散見する。元冠は折から暴風雨の助けもあり、幕府は中辛くも元の来襲を退けたが、三度目の襲来を深刻にうけとめていたことEがわかる。さて寄進地として大賀村が、幕府より指定されたことは関心をひく所である。大賀村はこの頃幕府の直接管理下にあったことが、}の寄進によって推測されるからである。この頃、常陸国内に北条氏一門もしくは、その関係者の支配下に転化した領地が文書によって確認されるが、大賀村もかつては他氏の支配下にあったものが、鎌倉幕府内の政変によって没収地となったものであろう。おそらく行方氏一族あたりの支配地では匹、、必、,i!、AO右治そうAMところで寄進を受けた神宮側では、治承の慣例により、大禰宜中臣頼親に大賀を知行させており、}の結果大賀地域は以後中臣頼親の子孫に相伝されていくことになる。また、幕府の祈祷依頼に対して神宮側では、毎年異国降伏の祈祷が恒常的に催されるようになり、「転読大般若経一部六百巻、仁王経十部百座、唯識三十頒一千巻」が勤仕された。この詰叫経などに使用される用途は、大賀地域からの収益から捻出された。そ0コ徴収に関する諸事を担当していたのが、大禰宜中臣氏であったと思われる。当時、祈祷を実施すると社寺側では、祈祷を実施した旨を知らせる目的で、巻数と呼ばれる報告文を依頼者に送り、}の巻数に祈祷し読経した経典名を記すのが慣例となっていた。神宮側でも祈祷後に巻数が多数作成されており、神宮文書中にその記録がうかがえる。異国降伏の祈時においては、弘安六年(一二八三)に最初の巻数が幕府側へ送られている。これに対して同年五月一日に幕府側では、無事に巻数を請けとった旨を報告するのに、執権北条時宗は神宮大禰宜に巻数請取状を発している。この後も祈祷の度毎に、神宮と幕府聞に巻数と巻数請取状が取りか208わされたが、現存神宮文書で確認されるのは、残念ながら弘安六年の北条時宗署名の一点だけである。弘安六年十二月十七日に中臣頼親は、子と思われる大賀村をめぐる大禰宜と大生氏枇沙鬼童に大賀村の地頭職を譲与し、さらに正安年(二ニO一)十月二十五日に中臣朝親は、権禰宜中臣能親に南郡橘郷・当社名田畠などの数多の所領とともに大賀を譲渡する。幕府将軍家も嘉元二年(二ニO四)二月三日、」の朝親の譲状をうけて能親の大賀村などの支配を認める下文を発している。}の様に大賀村は、地頭として大禰宜につらなる者が支配していった。しかし、その支配については平隠無事というわけにはいかなかった。このため度々、領地をめぐっていさかいが起き、幾度となく紛争によって支配が動揺させられた。}の頃、神宮社家内部では、大宮司職や大禰宜職などを始めとして、神職をめぐる織烈な抗争を繰り返した。また神宮社家は地頭など在地武士とも社領をめぐって衝突し、大禰宜中臣氏の社領支配に対しても甚だ不安定な状態でもあった。このため将軍家政所下文は、大賀村や橘郷(玉造町)などの中臣氏の支配の正当性を保証する上で、中臣氏にとって重要な意味を持つものであった。しかし、鎌倉末期に至ると在地武士の社領進出は一段と進み、社領はいたる所で在地武士の支配下に置かれる様になり、神宮では社領は存在するが、実質的に不知行の状態にあった地域が多くなっていた。これらの在地武士の侵入に対して神宮側は、度々幕府や摂関家に訴訟を企て、その支配の回復に意を注いだ。しかし、現実的には訴訟に勝っても、在地武士の執掛な抵抗にはばまれ、回復は困難を極めていた。大賀地域もその例外ではなかった。