ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世武士の社領進出であったと思われる。」の取帳中にみえる地頭は氏名の記載ないが、大生氏である可能性はかなり強い。中当時、大禰宜中臣高親は、在地勢力等に奪われていた社領の回復をもEくろんで、社領に侵入し非法行為をしている在地武士を新政権の雑訴決断所に訴えている。)れに対して雑訴決断所は、全面的に大禰宜高親の申し出をとり、建武元年三月十四日付けで、地頭大生弥太郎入道道固と子の孫太郎等に、大賀における濫妨の停止を命じる牒を発している。しカ〉しこの雑訴決断所の命によっても、大生道園等の非法行為は押さえられず、大賀地域における社領の回復は実現しなかった様である。同年十二月に作成された「鹿島神宮大禰宜中臣高親社領井神祭物等注文」によると、「大賀村大生弥太郎入道々圃濫妨之事」とみえ、依然高親は大生氏の侵略を撃退するには至っていない様子が伺える。このような大賀地域における様相は特殊なものでなく、鎌倉末期以降の他の神宮領に一般的にみうけられた。}のような社領内における大禰宜などの社家と在地武士は、地域や時期によって紛争の大小の相違はあるにしても、ぼ社家側に不利な状況であった、残念ながら、このような社家と在地武士の、社領支配をめぐる対立の具体的記録は乏しく、ほとんど不明の状況である。ただ、大賀地域に限って若干の記録が神宮文書に伝存している。その記録によって、当時の大賀の社家と在地武士の、経営関係の一端を紹介してみよう。記録というのは大賀村検注取帳副日記のことで、当大賀村検注取帳副日記の世界時課税に際して実施された検注の結果を記載した台帳である。神宮側では他村でも同様のものが作成されたであろうが、現存するのは現時点において大賀村以外確認されずそういう意味でも貴重な文書といえる。日記は元徳二年に作成されたものを応永期に写したものである。日記によれば、210元徳二年に大賀村で検注が実施された。}の時田地は、足数六Oを六O歩とし、これを基本単位として、二六O歩で小・三六O歩で半・四六O歩で大・五六O歩で三OO歩・六六O歩で一反という具合に大略六種の地方課税単位に分類されていた。この地方が課税単位として機能していて、各地方毎に一定の納入額が設立されている。規定では一反←五斗四升、三OO歩←四斗五升、大←三斗六升、半←二斗七升、小←一斗八升六O歩←九升というように、一反から九升きざみになっている。さらにこれら地方毎の納入額は、社家方と地頭方への納入額が明記されている。また、斗代という負担は一反毎に反別一斗三升で、是は宮方と当方折半で六升五合を納入する事になっていた。}れらの負担の他に都合というものがあり}れは読田反につき五斗四升を上納させこの内の一斗四升を地頭側で徴収する。この徴収分は加徴米と呼び、残り四斗を社家へ納入することになっていた。そして加徴米として地頭の手にとどめた籾の内、三石九斗が役所をほ通じて村民に下げ渡された。この使用内訳は、五斗は御別料で、五月五日・小七月両度の分のために禰宜に請けとらせだこうりょう月の駄倒料で、六斗は五月五日・小七せきりょう神事米として百姓一O人に請けとらせた。三斗は堰料で、百姓等に請けとらせ、一斗は御倉祝で、百姓等に請けとらせ、二石四斗は供料三人別で、一口八斗あてとなっている。大賀村へ下行した残り分の加徴米は、名主筆祝として名主に支給されている。この結果この時の大賀の読回数は、逆算すると加徴米が三石九斗と名主筆祝分である。反につき一斗四升であるから、約二七反強であり、}れに名主筆祝分を含めると、約三町歩前後ということになる。大賀地域は社家方と地頭方から構成され、村落住民として名主・百姓・おとな・禰宜などの名もみえる。おとなは宮方(社家方)と大賀(地