ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

頭方)に分かれており、}のおとなは有力農民とも考えられ、十名の存在が確認される。彼々は堰料の下行に際して、それを請けとりに行く重要な役目を有している。}の堰料とは、田地港紙の施設である堰の構築修理など、堰の管理・維持を目的とした支出である。)れは宮方と地頭方の双方より下行され、宮方一石五斗、地頭方三斗の合計一石八斗であり、下行米を宮方のおとなは五斗、大賀(地頭方)のおとなは一石三斗請けとっていた。}れでみると、宮方は地頭方より五倍の堰料を下行しているのにもかかわらず、宮方のおとなの請取分が、大賀の請取分の三分の一強と少ないのは、それぞれの地理的立地条件の他に、大賀における地頭方の力関係もあったのではなかろうか。これら堰に関連して、溜池も大賀地域には存在していたらしく、池代という形で記録にみえている。地代八反大とあり、半溜りの形式ではなかったと思われる。)の池代に対しても二二三文の金銭を割りあてている。しかしこの池代代一三三文は、元徳二年より応永田年(一三九七)十一一月八日に至るまでの六九年未払いのままになっていた。大賀地域の経営型態は、基本的には元徳二年より、応永田年に至る約七0年間大きな変化はなかったようであり、この間も、大賀は社家と地頭の支配下におかれていたが、地頭一O名の有力農民も継承している。は建武元年に大生道固であった以外は不明。}の道園は建武元年の大禰宜中臣高親の訴訟の結果、地頭職を没収された形跡がみえる。それ以降鎌倉期の潮来の地頭には、大生氏が復帰したのか、また他氏が就任したか明らかでなL、。一方社家方でも、}の間の知行者は不明であり、その後嘉慶元年(一三八七)十一月二十六日に至り、大禰宜中臣治親が橘郷などとともに第1章大賀を宗親に譲与す。さらに文安六年(一四四九)八月十二日に、大禰宜中臣氏親が同じく橘郷などともに大賀を嫡子枇沙一丸に譲与している。211