ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中第三節忍性の軌跡と船越地蔵E船越地蔵と潮来中世における水上交通の要衝として、霞ヶ浦、北浦これら両浦の入江に存などが脚光を浴びてきたが、した潮来、延方なども、水上交通の一拠点を占めていた。延方洲崎の船越地蔵尊は、その様な往時の様相を現在に伝える数少ない造物である。}の地蔵尊に関して延方普門院に伝存する『常州洲崎普渡寺地蔵菩薩由来縁起』は、その地蔵尊の由来を興味深く物語ってくれる。この地蔵縁起の語る所では、往時浪逆浦あたりは現在よりさらに大きな入江となっていたようで、鹿島灘が大きく内陸へ湾入し、潮の干満の影響を受けて、潮が入江の奥深く逆流したため、大変波荒い水域であったという。そのため、その逆流する潮と霞ヶ浦、北浦から流出する水がこの辺で衝突し、まるでその様は鰐が生物を襲うが如き雄々しく、常に渦が巻く荒川であったとみえ、現在でもこの水域は、鰐川という名を残している。この様な状態からしてこの浪逆浦を航行する事は極めて危険を伴うものであり、船上の者にとっても浪逆浦の水域の様相は、さに地獄の如き身もすくむものであったようだ。その地獄の淵から、暖かい救済の手を差し伸べるのが、他ならぬ地蔵尊であったと考えられていたのである。地獄に仏とは、正にこの水域を渡航する船上者の気持ちであったろう。さて、}の普門院に安置される地蔵に係わる縁起には、一人の鎌倉期を代表する高僧が深く係わっている。その人物は後に鎌倉の極楽寺を本拠として活躍し、戒律復興の旗手として、また、非人や病者の救済、よび道路の整備や架橋など、社会慈善事業などに専心した忍性という真212言律宗の僧侶である。ご}で忍性の来歴に触れてみる事にしよう。彼の出生地は大和国城下郡扉風里(奈良県磯城郡三宅町)で、伴貞行を父として建保五年(一二一七)に産まれたと「性公大徳譜」にみえる。十六歳の時に生母を失い、大和の額安寺に入ったという。当時、鎌倉新仏教の興隆著しく、これらの華々しい布教活動などもあり、南都の旧仏教などはともすれば圧倒されがちな状況であった。この様な趨勢下で、旧仏教界の再興をめざす運動が呼び起こされる事となり、南都仏教界にそれぞれ指導的立場に立つ人物が現れてきた。それらの内、叡尊、覚助、俊荷などは、律宗の戒律復興を目指し、それぞれ奈良、京都を根拠に、独自の運動を展開するのであるが、}の内叡尊の門弟に当るのが、。コ普門院の地蔵尊に係わる縁起に登場する忍性なのである。かくして忍性は師の影響のもとに、戒律運動の最先端として、戒律重視の思考を自ら実践するのであった。師の叡尊が大和を中心に、南都を動かなかったのに対して、忍性は遠く地方への布教を求めて東国へ下る事になる。当時、鎌倉など関東では、新興仏教の台頭著しく、忍性は自己修業の未だ達せざるを痛感し、一日一奈良へ戻るという挫折を味わうがまJ串その十年後の建長四年(一二五二)に二度目の関東下向を果し、八月十四日鎌倉の地を踏む。鎌倉は幕府の本拠地に当り、当時執権北条氏が幕府政治の最有力者であった。この北条氏らは臨済宗を厚く保護していた事もあり、今度も忍性は北条氏の保護を受ける神宗の厚い壁に会い、その時期に至らざるを実感した。そのため、一旦鎌倉を出て常陸国に入り、同年九月十五日に鹿島神宮へ来往する。}うして忍性と常陸との関係が出てくるのであるが、忍性が鹿島へ来訪した背景は、「性公大徳譜」におよると、出生地大和の春日大社に関係付けて記されている。すなわち春