ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

鎌倉期の潮来第l章日大社の本宮が、鹿島神宮であるという歴史的事実に根ざしている。当時、神宮には神宮寺・護国院・広徳寺などを始めとして、南都仏教に係わる寺院が多く、旧仏教の関係者にとって比較的馴染みゃすき環境であったことも、考えてよいだろう。さて、鹿島における忍性の活動は、同年十二月四日、同国の三村へ移動するまでの約二月半であったと考えられるが」の聞における忍性の消息は全く記録に留められていない。ただ僅かにコ一日間神宮に参龍し、法華経を献じたとある位であり、常陸圏内の宗教動静を考える上でも全く惜しむべき状況である。}の事は、忍性が地方へ真言律宗を拡大する普門院地蔵堂経過を考える上で興味深いが、忍性の鹿島滞在中の動向は一体どうであったのだろうか。}の件でいくつかの見解の根拠として注目されているのが、前述した普門院の地蔵縁起である。}こで再び地蔵尊縁起にもどり、船越地蔵尊の由第I -8図忍性と鹿島社神託緒を辿ってみよう。鹿島にあった忍性は、最初涼泉寺といわれた御手洗寺に止住したが、その後、同じ神宮内に存在した安居寺に移動したという。そして、」こで忍性は神宮の神託を受ける事になる。その神託とは、神木の南枝を切り取り、仏を彫って安置すれば、たちまち海上の災難は流れ去り、おだやかになるだろうとの夢告であったという。早速、神木の南にさした枝をとり、一万三体の彫刻を彫り、それぞれ三か所へ安置したという。その内の一体が延方普門院の船越地蔵尊であるとみえる。残り二体は、普門院のある洲崎の対岸大船津の普渡寺で、もう一体は宮中の普済寺であるとみえる。この様に縁起から普門院の船越地蔵尊が、水上交通の安全祈願を主たる目的で製作され、広く庶民間に信仰されていた事をうかがい知ることができる(現在も三寺院は確認できる)。普門院以外は無住持となって213