ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世いるが、記録をみると興味深いことに普済寺にも地蔵尊が把られている214とある。お清め地蔵といって、参拝客がここでお清めして神宮に上って中いったという滅罪地との事である。さらに重要な点は、忍性らの律宗系E統は師叡尊の西大寺再興以降、西大寺を中心とした関係から西大寺流といわれる。真言と律をともに重視する関係から真言律宗とも呼ばれ、その教義の特色の一つに減免活動を旨としている事である。いわゆる光明真言といわれ奈良般若寺で盛大に実施された、その後、叡尊は、}の光明真言を法会の特に重要なものとして定期的に行なっていた。光明真言については忍性の記録にも記述があり、普済寺が滅罪地との性格を有していたという事は、}の西大寺流の特色を有しているとの事から、同じ西大寺流の忍性との関連を考える上で興味深い事である。一方、普渡寺は、寺名の「フット」という言葉に想起される様にこれは「古渡」にもいわゆる渡場川港H津という意味にもとられる。現在江戸崎と桜川の境界に古渡という地名が有る。つながる様で}れは応安海夫注文によれば、両方に対岸同志でそれぞれ吉原・小田氏の知行であったことが知られる。これは注文が示す様に、対岸同志であった事実を思うと「フット」は、まさしく港H渡しに通ずる。少なくともこの北浦、霞ヶ浦に共通の渡しを意味することは他言を待たない所であろう。従って忍性の三体の一体を安置したという普渡寺は、まさしく渡場の寺H港の寺なのである。それはまさしく現在でも、それと照合する場所に位置し、普門院の地蔵堂と相対する位置になっていた。こうして船越地蔵尊は忍性の伝承とともに、中世期以来の潮来地方の水上交通の繁栄ぶりをしのばせてくれる。