ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第四節長勝寺鐘銘にみえる潮来鎌倉期も後期にいたるにしたがって、しだいにA吊長勝寺と鎌倉政権陸国内に北条氏の支配が浸透しそれにともなって圏内に北条氏一門の支配地が確実に広まってくる。その様相は網野善彦氏などによって明らかにされてきている。府中(石岡市)周辺地域や田中圧などを始めとして散在的ではあるが、北条氏一門の国内における進出の一端がうかがわれる。潮来を取りまく鹿行地方においても、小牧郷(麻生町)付近に尾張宗家が領地を有し、その後、守護領として佐介時綱の支配下に置かれたことが、鹿島神宮文書によって確認される。また、すでに大賀の地が幕府により、鹿島神宮へ元冠退散の祈祷料として、寄進されているように北条氏の手中にあったことが知られている。}うした北条氏一門の関連する地は、概して交通の要所地に位置している傾向にあるようにみえる。そうした中で潮来の地も、北条氏一門の支配と無縁ではなかったようこの頃の記録はほとんど残されていないので、北条氏一である。現在、門と潮来の結びつきを、具体的に裏付けする物的証拠は、全くといっていい程残されていない。そうしたことから長勝寺と長勝寺鐘銘は、現在鎌倉期の潮来唯一潮来と北条氏のかかわりを物語るものとして興味深いものである。また、長勝寺鐘銘は北条氏得宗家との関係を通じて、当地における水上交通の一端を知る手がかりとしても重要である。鎌倉末期に、鹿島の大第l章船津に連動して繁栄した潮来津の往時の様子を}の鐘銘はわずかに現在へ伝えているのである。長勝寺鐘銘によると「常陸国海雲山長勝禅寺鐘銘有序寺始於文治元年右大将殿時所立也」とあり、}の長勝寺の来歴が文治元年(一一八五)の創建とみえており、以後鎌倉期を通して鎌倉殿すなわち、幕府将軍家の御祈願所となっていたという。」うした将軍家とのつながりは、本堂棟の寺紋の笹龍胆にも表わされていて、潮来と源氏の関係の鎌倉初期に遡れるのである。少なくとも潮来の地は、何らかの意図で鎌倉幕府と関係を有していたものと思われる。ところで長勝寺創建の文治元年といえば、治承四年(一一八O)より続いた源平の争乱の最後を飾る年であり、いうまでもなく二月の屋島の戦いに続き、三月の壇ノ浦の戦いで、遂に宿敵平氏を滅亡においやり、源氏の積年の悲願を達成した年である。そして十一月には、全国の荘園・国街領に守護・地頭の設置を許可する勅許を得て、平氏にかわって全国の支配基盤を確立させようとしていた。まさに源頼朝にとって武家による政権を開始するにあたって、記念すべき年であった。こうした歴史的年に長勝寺は建てられたというが、源氏すなわち頼朝による、長勝寺の建立の具体的背景は、明らかではない。何故に潮来に寺院を建立したのか、頼朝と長勝寺を結びつける直接の要因は未だ不明のままである。ただ、頼朝は鹿島神宮を武神をまつるとして崇敬の念を強くもち鹿島社に対して神領を寄進したり、鹿島三郎政幹を神宮の総追捕使に任命するなど、手厚く保護している事実を考慮すると、頼朝にとって神宮ばかりでなく、鹿島周辺地に対しても何がしかの思いがあったのであろう。また、頼朝は佐竹氏討伐と志田義広の鎮圧に常陸国へ進出し、府中あたりへ箪を進めているが、案外この時に、北浦、霞ヶ浦をとりまく自然環境が、水上交通に適している事に着目したのかもしれない。その後、潮来の地は幕府祈願寺長勝寺を通じて、幕府と関係を有して215