ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中Eたとされる。いつの日か北条得宗家(北条氏の嫡流)の領地下に入っその事は長勝寺の鐘銘に「大檀那相模禅定門崇鑑」とあり、216いったようだが銅鐘の改鋳に崇鑑なる人物が、関係したことで理解される。すなわち、相模禅定門崇鑑とは、鎌倉十四代執権北条高時の事であり、}れによって潮来の地が、北条得宗傾に服属していた事は確定的とされる。しかし北条得宗家が潮来を領有する契機は、いつの頃かはっきりしない。ちなみに、行方郡中に限っていえば」こに至るまでに若干の所領の変動がおこっていた。一つは、大賀村が北条時宗(八代執権)によって、神宮へ寄進された点である。一一つ目は、弘安八年(一二八五)に斯波左近将監宗長勝寺旧山門家が、神宮文書中で「近年拝領」といっている蔵成名の件である。少なくとも行方氏の一族の中で、所領を没収された者があったようである。没収地の一部は北条得宗領となり、に与えられたようである。一部は、北条氏一門に近い斯波宗家この斯波宗家は、母が北条重時の子為時の女第I -9図子にあたり、北条時継の女子を妻としている関係から、蔵成名(現麻生町の小牧あたり一帯か)も事実上北条氏の勢力下に入ったといえよう。いずれも鹿島神領中の中心に位置して、大賀といい、蔵成名といい、すでに鎌倉中期には、潮来を含む行方郡の東側地域に、北条氏得宗を始めとする一門の進出がみえるのである。こうした北条氏一門の進出は、元冠を契機する北条得宗家の、幕府内におけるめざましい発展に深くかかわりを有しているとも思われる。北条得宗家の急成長は、しだいに幕府内部の秩序を崩すことになる。そ》つした不安定な政治状況の中で、北条氏得宗家の御内人(得宗家の家臣達)と御家人との関係が尖鋭化し、遂に弘安八年十一月霜月騒動となって爆発する。この騒動で有力御家人の安達泰盛は、御内人の頭目の平頼綱の指揮する御内人に屋形を襲撃された。泰盛は一族もろとも討死し各地で