ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
泰盛に加担した御家人が、多数討たれている。}の騒動で安達氏側についた御家人の中に、常陸圏内に所領を有する者が多く、このため、騒動後常陸国内は、極めて大きな変動を余儀なくされている。騒動の中心人物安達泰盛の所領だった中郡庄(岩瀬町一帯)が没収され、北条氏の手中に入った事はいうまでもない。小田氏一族の田中筑後五郎左衛門尉、同筑後四郎知泰も、泰盛とともに討死し、所領の田中荘も北条得宗領となった。こうして一四世初頭には、北郡が北条氏一門の支配下にあったことが確認される(石井進「鎌倉時代の常陸国内における北条氏所領の研究」『茨以県史研究』十五号)。この騒動の余波は行方郡中にも及んでいる。最上系図によれば、大賀の北方に位置する蔵成名を領有していた斯波宗家も、につき、たおれている。この騒動で泰盛側この結果、蔵成名は斯波宗家の手を離れ、北条氏一門領に組みこまれたという。蔵成名には小牧郷も含まれていた関係上、大賀村を領有していた大禰宜中臣氏も、小牧郷の経営をめぐって微妙な立場におかれる事になった。ところで、〕の騒動における行方郡中の諸氏の動向は、現在の所斯波宗家以外確認されていない。ただ、きょうみよう騒動における討死者の交名(名前を列記した書付)が、熊谷直之所蔵文室田にのこされているが、」の交名に多くの戦死者に混じって行方小二郎なる人物の名が載せられている。しかし)の人物が常陸大嫁氏系行方氏であることは確認されていない。もしこの人物が行方氏一族であった鎌倉期の潮来とすれば、行方郡中の一部も、蔵成名と同様の運命を辿ったと十分に考えられよう。そして、潮来の津を含む所領が、行方氏より没収され、北条得宗領となったのはこの騒動の時ではなかったろうか(網野善彦「地名第l章と中世史研究」『関城町の研究』四号)。行方小二郎なる人物の出自と行方氏の潮来支配が、確認されていない現時点においては、霜月騒動と潮来の得宗領化を結びつける事は確信をもてない。しかし、小牧氏が外小牧村の地頭職を没収されて、外小牧村が守護領に編入され、守護北条氏一門の時綱の支配下におかれた事や潮来の対岸に近い下総国東庄上代郷(千葉県東庄町)の一部が、東氏より北条氏関係の称名寺領にかわっている事などを考えると、鎌倉後期に至り潮来を取りまく周辺域に、北条氏一門の顕著な動きが想起される。この様な点を考慮すると、潮来の地が得宗領に入った時期は、少なくとも弘安期を含む鎌倉後期と考えられよ、,qノ。こうして潮来の地が北条得宗家の支配下に入ったことで、北条氏一門は大賀、蔵成名、羽生、高岡、そして上代と、潮来付近を中心として北浦と霞ヶ浦の入江に位置する地域を占めることになる。そしてこれらの地は、いずれも津に連携している。大賀、白浜、羽生、山田、小見川といずれも応安の海夫注文に数えられている津の所在であった。鎌倉末期の潮来には北条得宗家との関係が色濃く存沙弥道暁と潮来}れと並んでもう一氏が、潮来在していた様だが、に係り合いを有していたようである。長勝寺鐘銘のの末尾に「大工甲斐権守助光大施主下総五郎禅門道住持伝法沙門妙節暁」とみえるが、}の大施主下総五郎道暁が、潮来に何らかの影響をもったもう一つの勢力と思われる。さてこの鐘銘中の下総五郎とはいかなる者であろうか。水戸市彰考館に、水戸藩内の寺社の起源を調査した開基帳がのこされている。}れによると、長勝寺の鐘銘は「元徳庚午年、下総国千葉五郎禅門道暁ト申仁鐘鋳ナホシ申」と記録されていて、道暁なる人物が千葉五郎と、千葉氏族の者としている。さらに千葉系図の中に、下総五郎の註をもっ千葉胤長が記載されていることから、千葉胤長を道暁に推定している。千葉系図によれば」の胤長の父は胤朝で、V}の胤朝は東胤頼の子にあたり、胤朝は木内氏と称して、下総国の木内庄217