ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世}うして下総五郎道暁なる人物は、千を領収して下総家と号している。葉氏族の木内胤長と通説的に考えられてきていた。中」の元徳二年の鐘銘の他にもう一つ宝暦二年一方、長勝寺には、皿(一七五二)の鐘銘が存在していた。}の宝暦二年の銅鐘は、長勝寺中興第五世の宝州祖幸の代に鋳造されたものであるが、残念ながら幕末に至り水戸藩に接収されてしまい、現物をみることは出来ない。也捕手申匂+AFJλφ卜hh軽oape常陸鐘銘集に載せられている。それによると牧、常平、陸崇、州鑑、海功、雲徳、山主、長千、勝葉、禅道、寺暁、与、有親、古族、鐘借、一鋳、口宅外護相州錆云元徳歳在庚午、妙節長老請円覚清拙為之銘、寺創立於文治元年事見子序。如其規制、則雄初不載事、以今視之、蓋亦鎌倉氏所営、市丹椅離婁、可以知己、惜哉石誌潰滅、無知其詳也。独徴古者宜莫若古鐘、然文治之初、見性之説未盛行子世、亡論彼南北之諸家市未及其淵源量不遺憾云々と、元徳二年の鐘銘の来歴について語り、そして鐘銘によってのみ、長勝寺が源頼朝に関係する寺院であることを物語っている旨を記している。檀こ那の崇宝鑑暦をニミモ年目の完鐘条銘氏はてづ大護施相主州道牧暁平乞主会圭雇主品」一氏弱比徳定主し千て葉い道る暁Lーのにと気付大く。この様に宝暦二年の鐘銘でも、下総五郎道暁を千葉氏族と考えていたのである。むろん宝暦二年の鐘銘が、開基帳の記載を参照している可能性も考えられるが、すでに江戸中期には、禅門道暁なる人物を、千葉氏族と一般的に解していたようである。ところで東京大学史料編纂所に、木内氏系譜(@本)と、木内系譜(@本)と称する二本の木内氏関連の系図が所蔵されている。この両者の系図は寛永二十年(一六四三)の写本をさらに写したものである。@本は寛政五年(一七九三)の写本で、@本は天明四年(一七八四)の写本である。@@両本とも、記述において微妙な違いがみえるが、基本的には類似し218ており、しかも、相互に補完し合える所も多く、両者を照合すると木内氏に関して興味深い知識を提供してくれる。加-守』p-、サ'φr}の系譜の成立背景が確認されていないので、)の点に留意することが必要である。以降、@@二本の系譜をみていくことにする。@本によると、千葉大系図にみえる千葉(東)胤頼の子胤朝は、つぎの如く注記が記されている。下総前司初メ次郎号木内軍2領功会於累翼下子と総地国故震為郡恩木君E望星馬23最高差仕淡幕路府国明直員1承備会"'"口眉戦目之失時此育各難有称号総号下総家、又後年商孫之中、世々為千葉介家臣之長也、胤朝は香取郡木内庄の田部城(山田町)に居り、幕府に出仕して承久の乱の時に軍功をあげたという。この時の恩賞として、但馬国磯部庄(兵庫県朝来郡)、淡路国由良庄(兵庫県洲本市付近)を賜わったようである。そして、}の胤朝の子孫はそれぞれ称号を有し、総じて下総家と号したという。さらに}の子孫中に代々千葉氏の家臣の長として仕えたものもあったとみえている。)の様にこの系譜でみる限り胤朝は、木内氏の初代にあたりこの系統を下総家と総称されていたことがわかる。こ3フIVて、これらの事は千葉系図の記述とほぼ共通するので、下総家が千葉氏族の木内氏の可能性は強い。長勝寺鐘銘中にみえる「大施主下総五郎」iまこの下総家の一族であろう。さて木内氏の一族の法号をみると、胤朝が道阿弥を法号としたのを始め、@@本により胤朝の子胤盛の道胤・孫の胤直の道源など、道の字が木内氏の法号に用いられている例をみい出す。すなわち道の字は木内氏