ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世れ将軍家に仕えたとあり、@本では建長四年(一二五二)二月九日に没したとみえている。@、@本の系譜をとる限り、胤長を禅門道暁に比定す中る事は難しいようである。開基帳が胤長説をとる背景は、千葉大系図のE胤長の注に、下総五郎とあったことに起因している。しかし、この千葉大系図は千葉氏全体を記載したもので、木内氏に関しては胤長までしかなく、胤長に対して十分にみているとは限らないと思われる。このために@@両系譜の記述の信濃性が問題になってくる。」の両系譜は末尾にみえる様に、寛永二十年に高木七右衛門なる人物が書写したものを、さらに高木七兵衛が写したものだが、高木七右衛門の書写した出典が明らかでなく、さらに七右衛門の書写が、原本をそのままに写しているが確認されていない。@本ついで@本の順で七兵衛が写しているが、」の両系譜は没年や注に多少記述上で違いがみられるので、@@両系譜の関係が判然としない。ところで木内氏に関しては、多少文書中にその動向を追う事が可能である。このうち、応永田年(一三九七)九月六日関東管領上杉朝宗奉書案(「木内文書」『大日本史料七編之二』)、応永七年十二月十三日木内胤雄売券(同前『大日本史料七編之四』)の二点の文書には、木内氏一族(下総家)の名が結構みえていて、一族の関係をみる上で興味深い。ついで、一一つの文書を中心として、文書中に登場する木内氏族の人々を整理する。対比図によると、@@両系譜は一部に若干の問題があるにしても、およそ文書中の活動時期と身内関係が、符合する点に気がつく。」の系譜の性格上の検討は、さらに必要と思われるが、現時点において、木内氏一族の動向を物語るものとしての信恵性は高いと思われる。したがってこの両系譜を重視すると、開基帳にみえる禅門道暁H胤長説は無理の様である。むしろ、禅門道暁川胤光の方が、時期的に妥当と考えられる。220住@本によると胤光は「木内大和守新九郎(朱)「鎮」正中二年正月二日妙見尊祭城内之為鐘護神(亨)冗享三年美亥築城川上移観応元年庚寅五月七日法名月光無闇」と注が記されている。@本もほぼ同じである。胤光の父胤秀は但馬守・平三郎と称し、元亨二年(一三二二)十二月二日に没している。元徳二年長勝寺の改鋳時には生存していなかったことになる。そして彼は観応元年(一三五O)五月七日に没している。@@両系譜からみた限り、元徳二年の長勝寺銅鐘の鋳造時に胤光は生存しており、禅門道暁として長勝寺に関係した可能性はかなり強い。fこだこの胤光を道暁にあてるにしでもなお問題はのこる。それは胤光の法名が月光無闇と記されていて、禅門道暁とはみえない事である。AB両系譜の原本をそのまま忠実に書写したと系譜末尾にみえている事を信用すれば、この原本そのものが江戸初期に成立したようにも考えられるので、あるいは原本成立時の錯誤であろうか。}のように禅門道暁に関して、決定的な証拠を今にみいだせないので、即断はできない。ただ、千葉氏族の木内氏の一族の者であることはほぼまちがいないであろう。そして木内胤光が、胤長より道暁にふさわしいと思われる。のこ'つして、元徳二年の長勝寺銅鐘の鋳造に木内氏は、北条得宗家とともに係わりをもっていたのである。そしてこの事から、すでに木内氏は、お潮来の地に何らかの関係を有していた事が分かる。木内氏と潮来を結びつける背景はなんであったろうか。そもそも、木内氏は鎌倉幕府有力御家人の東胤頼の子胤朝に始まるとされ、胤朝は木内荘(現在、小見川町の南側と山田町の北側一帯)を領し、以降子息を荘内やその周辺に分出させていった。)の胤朝の子息らによって木内氏の基盤が、ほぼ確立されていくようである。小見、上代、田部、虫幡、油田などの各氏は、そ