ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

れぞれ胤朝より所領を譲与された木内氏族の有力庶子である。潮来の長勝寺に関係したのが田部氏であろう。ところでこれら木内氏一このうち始めとして、香取社と深く係わりを有している。族の所領は、香取社領地域の付近に存在し、津の支配や社殿造営などを)とに応安の海夫注文(香取文書)によると木内氏は、潮来の霞ヶ浦をはさんだ対岸の岩ヶ崎(現佐原市)の地に、津の海夫を知行していた事がみえている。また、香取っている事が、香取文書に記されている。社造営に造営奉行を担当したり、社領などからの造営費用の徴収を行なこうした中で木内氏族の岩ヶ崎の津の知行は、潮来と木内氏の関係を考える上で興味深い事実である。に位置し、この岩ヶ崎の津は、霞ヶ浦が下総台地へさらに深く湾入する入り口付近資の往来を鹿島神宮文書で確認できるが}の頃にもいわば水上交通の要所にあたる。戦国末期には鹿島社との物そのような水上交通の要地であった可能性は高い。しかも、この湾入部を少し奥へ進んだ所には、闘で有名な神崎闘が位置しており、関銭徴収の事例も文書に鎌倉期の潮来第l叢清拙正澄画像(吉川弘文館刊『国史大辞典』第8巻より)第I - l図みられる。一方、長勝寺の所在する潮来津は}の頃北条氏得宗家の領常陸蘇城」と賛の地下に位置し、長勝寺鐘銘に清拙正澄が「客船夜泊一節に記したように、鎌倉末期に津の繁栄ぶりがうかがわれる。こ3フした事から、潮来と岩ヶ崎聞には、相互に人聞や物資の往来が想起されるのである。このような水上交通の中で木内氏は、何らかの特権を潮来にも有していたようにも思われる。長勝寺の鐘銘を長勝寺住持妙節の要望によって作成鍋鐘と清拙正澄した清拙なる人物は、鎌倉の臨済宗寺院の高名な禅僧であり、正確には清拙正澄という。鎌倉期には北条得宗家を始めとする幕府の厚い禅宗保護のなかで、殊に臨済宗の興隆が著しかった。そうしたなかで、すすんで中国へ渡航し、禅修業を計ろうとする禅僧ゃ、北条氏一門などにより、中国の元からの禅僧の招聴が数多くなされた。渡来僧の中には、北条氏などの招聴による者ゃ、自らの意志で日本へやってくる者があった。また、宗教的普及を目的とする者の他に、中国から逃亡してきた者もあったようで、その渡来の背景は一様ではなかった。嘉暦元年(一三二六)に日本へ来往した清拙正澄は、克において高名な僧であったが、モンゴル人の元朝支配下における中国社会の不安により、亡命の意図で日本への渡航を決意したと考えられている。当時の中国ではモンゴル至上主義がとられ行政官には民族的差別を設け、モンゴル人によって全ての官庁が監督された。また、南宋統治下にあった人びとは、南人と呼ばれていやしめられ、色目人(中央アジア、西アジア系の諸民族)や漢人(金の支配下にあった者)の下位に置かれていた。南人と呼ばれた者はモンゴル人の支配を嫌って南方へ移動した中国人のことで、彼らはモンゴル人の元朝統治下では、不遇の生活をよぎなくされていた。またモンゴル人の元朝は、公用語としてモンゴ221