ブックタイトル潮来町史

ページ
234/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている234ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世ル一語を用い、さらに新たに考案したパスパ文字を使用するなど、中国の中伝統的文化を尊重しなかったため、南人らの中国に古くから住みなれた者の動揺は極めて深刻であった。E清拙正澄はこのような大混乱下の中国に誕生するが、正式には、南宋戚淳十年(一二七四)正月三日に福州連江(福建省連江県)に生まれた。ンゴル人の元朝誕生の三年後にあたり、まさにこの年日本では元の来襲によって、文永の役が起きている。清拙は姓を劉氏といい、兄に禅僧として著名な月江正印があった。清拙誕生時の福州は、まだ南宋の統治下にあったが、北方に成立した元朝の恐怖が高まるなかで、騒然とした社会状態であった。彼の五歳の時に南宋は滅び、故郷は元の支配下に入り、清拙の身辺も大きく変転していった。一五歳の時に、報思寺の伯父の月けいじょっえんじんずぐごくちえ渓紹円のもとで出家する。その後机州の浄慈寺の愚極智慧に参じ、その法嗣となる。二七歳の時に師の没にあい、ついで方山文宝のもとに一五年間いる。以降虎厳浄伏・東厳浄日に参じ、ついで嚢州鶏足山聖因寺に四年在住した。その後、松江の真浄寺に在住となったが)の在住中に日本からの要請があり、泰定三年(一三二六)六月、弟子永鎮とともに出国する。日本への渡海は途中台風に遭い困難をきわめ、博多に上陸したのは二か月後の八月であった。翌年正月清拙らは京に至り、そして二月執権北条高時に迎えられ建長寺に入った。清規の大家として著名な清拙は、禅の規約に精通し、禅宗の修業規範の確立につとめた。建長寺在住三年間に清拙は、禅規を刷新し、寺内に公的寮舎を建造したり、規矩を「百丈清規」にもどしている。}のように清拙は建長寺の衆僧が風紀を守り、修禅できるように気風を一新したのである。その後、元徳元年(一三二九)彼は浄智寺へ移り、さらに翌年八月から円覚寺に住した。長勝寺の住持妙節から賛を要請され、長勝寺銅鐘銘の撰文をしたのがこの年の十月である。}の円覚寺に在住した時、清拙は222多くの漢詩文、寮銘、鐘銘をのこしている。その後、元弘三年(一三三はじようえかい一二)正月十七日、『百丈清規』の創始者の百丈懐海をまつる「百丈忌」を日本で初めて設けた。」の年に建長寺内の禅居庵に退去したが、そして、モ,鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇の勅命により上京し、建仁寺の住持となる。さらに建武三年(二ニ笠原貞宗は、清拙正澄に帰依して、建武二年信濃国に畳秀山開善寺を創建して清拙を開山に請じている。}の小笠原貞宗は、射芸、騎乗の名人で一般世間の礼法成立に尽力し、小笠原流礼法の基礎を確立した人物でこの小笠原流礼法の下地は、清拙正澄の『大鑑清も知られているが規』(日本臨済宗寺院の規矩を日本の風俗に即した)に基づくともいわれている。その後も清拙は京都にあり活躍するが、暦応二年(一三三九)正月十七日「百丈忌」の当日、六六歳の波凋に富んだ人生を閉じる。入滅ゆいげ直前に清拙は、最後の気力をふりしぼって追備をのこしている。現在、鎌倉の常盤山文庫所蔵で、昭和二十七年に国宝に指定されている。かんわり遺舗は俗に「棺割の墨跡」と称されている。そのゆえんは、清拙の臨終のに間に合わなかった弟子が、棺にすがって泣いたところ、亡くなった筈の師が目を聞き、戒法を弟子に授け、再び目を閉じたという伝承があり、この奇跡からこのようにいわれている。清拙は建仁寺禅居庵と建長寺禅居庵に埋葬され、大鑑禅師と称された。彼の門派は大鑑派と呼ばれ、日本で最初に『勅修百丈清規』を出版した古鏡明千を始めとして、天境霊致・独芳清曇などは門弟にあたる。同じく門弟の独峰清親は俗名大友氏泰といい、豊後守護大友氏の一族である。五山文芸の大家希世(村庵)霊彦、さらに遣明船(応永二年に使節の正使として明へ渡る)で活躍した天与清啓なども、}の門派出身である。さらに清拙と親交のあった五山禅