ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
僧に、虎関師錬、天岸慧広、明極楚俊、佐一仙覚悟、雪村友梅などがあり、その幅広い交流をうかがえる。なお清拙を開山とする寺院には、興聖寺(京都の八坂にあったが廃寺となる)、成願寺(神奈川県湯河原町城堀に存在し土肥氏の創建)、安国寺(石川県七尾市古田府にあったといわれる鎌倉期の潮来第1章が不詳)などがある(『中世禅宗史の研究』)。)の様に長勝寺の銅鐘銘の作者である清拙正澄は、当代きつての高僧であり、北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、足利直義、小笠原貞宗、大友氏泰などの時の権力者の帰依を受け、日本禅宗の規則の整備と清規の実践に、多大な功績を残したのである。こうした当代一級の高僧の手になる長勝寺の鐘銘は、その銘文制作者と銅鐘寄進者が歴史的に著名な人物であったためか、かなり以前から世人の注目する所であった。殊に水戸藩二代藩主徳川光聞の領内寺院整理は、鐘銘の歴史的意義を公的に認める契機となった。覧文五年(一六六五)幕府は諸寺院法度の発令により、宗教統制と取締りの強化に乗り出すと、これを受けて翌年光聞は、領内の寺院の徹底した整理を断行した長勝寺の鐙名が、くしくもこの政策の中で鐘銘が注目される事になった。この寺院整理政策の基本に「古利廃寺の如きは、皆修葺興す」という原則を光聞はかかげている。すなわち、由緒ある寺院で廃寺となっているものを、光園は全て修繕を加え復興する方針であった。}のため光聞は寺院の由緒第I -12図を調査されているが、長勝寺の場合はこの鐘銘によって、由緒を認知したのである。光閏没後後一OO年たつと、寛政の改革を行なった松平定信は、老中を辞した後に古物愛好から『集古十種』を編しているが、F}の鐘銘項に長勝寺の鐘銘が取り上げられている。「常陸国潮来長勝寺鐘銘」と題し、銅鐘銘の拓本が掲載されているが、}の「集古十種』に紹介されたことが、世の脚光を浴びることとなり、知識人の間に広く知られる契機ともなったようである。田原藩家老で文人画家でも著名な渡辺皐山も、早くから長勝寺鐘銘に興味をしめした一人である。文政八年(一八二五)渡辺幸山は、三三歳の時に心身の保護を目的に、六月二十九日から七月にかけて潮来水郷を訪れている。223}の時渡辺肇山は長勝寺に