ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世そして海岸に程遠くない地域に所在していたようにも思える。}の様に清拙撰文の鐘銘は、現存確認されるものは僅に三鐘しかなく、しかも、中現在でも元の寺院にそのまま伝来しているのは長勝寺鐘しか確認されず、皿しかも、鎌倉幕府執権北条高時寄進の鐘という歴史的意義もあり、誠に重要な文化遺産というべきものである。ところでこの長勝寺銅鐘の鋳造者甲斐権守助光は、下野国天命(栃木県佐野市)の鋳物師で、卜部助光といい、元亨元年(一三二一)銘の日蓮関係の寺院で有名な下総国の日本寺銅鐘の鋳造者でも知られている。の鎌倉末期頃には、常陸圏内にも筑波郡北条の三村や小鶴荘の宍戸鳴井の鋳物師などが活躍している。宍戸鳴井の鋳物師沙弥善性は、延慶二年(一三O九)久慈西郡戸崎村の蓮光寺の党鐘を鋳造し、応長元年(一三一一)下総国印東荘八代郷船方の薬師寺の究鐘を鋳し、さらに正和五年(一三二ハ)に鹿島郡内の安福禅寺の鐘を製作している。しかし、この卜部助光の如く他国の鋳物師も活動していた。なお、他国の鋳物師として、他に河内の鋳物師丹治氏の活動は興味深い。時代は少し湖るが鎌倉中期の正嘉元年(一二五七)多珂郡の安良川八幡宮の鐙を丹治国光が鋳造し、建治元年(一二七五)信太荘の宍塚の般若寺鐘を、丹治久光と千門重延が製作している。ところで長勝寺銅鐘の製作者のト部助光は、佐野市天命(天明ともいう)あたりを根拠として活動していたようだが、室町初期にかけて天命付近には鋳物業を正業とする鋳物師や万鍛冶の職人がしだいに定着し、一つの鋳物師集団を形成していった。}れが世にいう佐野天明鋳物師で、江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』に「東山時代、関東の天明釜あしゃをもって、良となす」と称賛され、西の芦屋釜を凌いで全国に名を知られた。この天明鋳物師の起源は未だ定説をもたない。天慶二年(九三九)河内国丹南郡狭山郷(大阪府南河内郡狭山町)の鋳物師が、金星寺岡村226(足利市寺岡町)に移動してきたというが、確たる証拠に欠ける。明鋳物師がはっきりと文献的に確認されるのは、鎌倉期に入ってからで、)の天建保六年(一二一八)に鹿沼北犬飼薬師堂の薬師如来坐像が寄進されているが、その銘である。ちなみにこの如来坐像は鉄仏で、鋳造者は坂本某こまいぬついで建治三年(一二七七)に字都宮二荒山神社へ狛犬が寄進さとある。れている。製作者は吉田某と銘にみえている。また同年に西方薬師堂に、Y}安倍光信等の手による薬師如来坐像が寄進されている。そしてト部助光の頃には、その鋳物師の基盤がある程度回定化し、そして近隣にも知られてきた頃と思われる。