ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第二章南北朝期の潮来第一節建武新政権と潮来鎌倉政権が滅亡すると、隠岐に配流の身にあった後醍大賀村へ進出する大生氏醐天皇は、名和長年、楠木正成、などの反幕府勢力や幕府を離反した足利高氏らにむかえられ、京都に復帰して新政権を樹立した。}うして建武の新政が開始されるが天皇の新政の基本は天皇親政にあり、武家に奪われていた政治をもとの天皇・貴族らの手に戻すことにおかれていた。このため鎌倉政権下で武家の侵入を受け、支配力を低下させていた権門・本所・寺社などは、新政権のもとに復権を計ろうとしていく。}とに下地の領有をめぐる紛争、および旧幕府の北条氏などの没収地の分配をめぐって貴族・寺社勢力の巻き返しは、目をみはるものがあった。}の様な社会的動向に対して新政権は、雑訴決断所を設置し、急増する土地紛争に対処していく姿勢をとった。南北朝期の潮来常陸圏内においても、鹿島神宮・吉田社などを始めとした寺社が、領地の支配をめぐって新政権へ提訴を構えていった。こうした寺社と武家の紛争は潮来地域にも及んでいる。鹿島神宮所蔵の雑訴決断所牒(『茨城県史料中世編I』所収)は、潮来地域をめぐる紛争を建武新政に提訴し第2主主た事を物語るものである。雑訴決断所牒によると、鹿島神宮大禰宜中臣高親は、社領の大賀村と大生村の支配をめぐって、両村地頭職にあった大生道円と子息彦太郎を、社領に濫妨したとの理由で雑訴決断所へ訴えた事がみえている。}の両村は神宮社家(大禰宜中臣氏)にとって特異な領地であった。大賀村に関しては既に記述したように、弘安五年(一二八二)十二月二十八日、鎌倉将軍家惟康親王より寄進を受けて以来、蒙古退散の祈祷料所として重要な意義を有している。また大生村も、既に鎌倉期以前に鹿島社の基本的神領に入っており、さらに正中二年(一三二五)六月六日散位某他三名連署奉書(『茨城県史料中世編I』)にも記されているように、神宮遷宮時に造営費用を負担する造営料所ともされて、』F旬。、UJJそもそも大賀村は幕府の寄進以降、地頭職に大禰宜中臣氏があり、大禰宜中臣氏と大賀村の関係は、極めて強固なものであったようである。神宮文書によれば、寄進後中臣頼親が地頭職を有し、弘安六年十二月十七日に頼親は子息の枇沙鬼童へ譲与している事が確認される。しかし、鎌倉末期に至り大禰宜中臣氏は、地頭職を失なった様である。正安三年(一三O一)四月二十二日、大綱宜中臣朝親が嫡子能親に所領を譲与しているが、}の譲状に地頭職がみえないのである。}の時、能親が譲与されたのは、神宮の名田畠、南郡橘郷、大賀村であった。さらに幕府はこの頼親の譲状の旨を受けて、乾元二年(二ニO三)二月三日、将軍家政所下文を発し、能親の相続を公認している。}こでも大賀村の地頭職には言及されていない。朝親の時代に中臣氏は大賀村の地頭職を失なったと227