ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世思われる。このようなことは鹿島神宮所蔵の大賀村検注取帳副日記案(『茨城県史料中世編I』)に次の様な興味深い記述が残されている。「雑中士山ヲハイ分スル次第、宮方へノ分、銭八百文、白米一斗三升八合々中、E籾二斗二升口口、大豆二升、此外水クリヤ細々在之、文帳紙一帖中略地頭方へノ雑志ハイ分事、銭四百五十文、白米七升八合々中、籾一斗一升三合、大豆一升、此外水クリヤ細々物弁帳紙一帖アリ」この大賀村検注取帳副日記案は代々の写しであり、その日記の原本の成立が明らかでない。この日記案中の文言「元徳二年晴十一月十八日日それとも元徳二年記ヲ写了」と元徳二年の日記を写したと解するか1、に日記を写したと解するか2、で成立年代が違ってくる。1とすれば、成立は元徳二年という事になるが、2と解すれば、日記の成立は元徳二年を含むそれ以前となり、成立時期を特定しにくくなる。おそらく元徳二年か、それより少し前位ではないかと推測される。その頃、日記によれば大賀村で検注が行なわれ、その際に雑志分など始めとして諸得分を宮方と地頭方で取り分を決めたが}の時、宮方と地頭が別個になっていたことがわかる。宮方は大禰宜中臣氏にあたり、地頭はおそらく建武元年(一三三四)三月十四日に大生・大賀両村地頭の大生氏であったと恩われる。このように神宮所領は鎌倉末期に近づくにしたがって、地頭等の侵入はさらに強まり、日常化すると神宮側の所領支配能力は動揺を余儀なくされる。神宮側の大禰宜など社家勢力は、幕府や摂関家政所などに提訴することで対抗していたが、建武新政府が成立すると、雑訴決断所に望をたくしていった。)うして大生と大賀村をめぐって、大禰宜中臣氏は大生・大賀両村地頭の大生氏に対処していくのである。雑訴決断所牒によると、大禰宜中臣高親の訴訟の理由は、大生道円と子孫彦太郎の横暴であり、主として大賀村に対するものであった。すでに弘安の寄進以来、228鹿島社大禰宜中臣氏の経営下にあった大賀村は、鎌倉末期に至り大禰宜中臣氏より大生氏へと地頭職が交替すると、大賀村内に大生氏の勢力がしだいに浸透していった。そもそも大生氏は、大賀の南隣大生村を本貫地とする一族で、大生村の地頭になった時期は明らかではないが、鎌倉末期頃には地頭職にあったと思われる。大生村内における大生氏の動向は定かでないが、大賀村における様な訴訟文書が神宮に所蔵されていないので、大生氏の大生村支配は安定していたと恩われる。その後、大生氏は大賀村にも進出し、何らかの理由で雑訴決断所と大禰宜中臣氏大賀村に地頭職を獲得すると、村内の大禰宜中臣氏などの相伝所領に不法行為を重ねていく。不法行為すなわち「濫妨」については具体的に記されていないが、大幅宜中臣氏の土地経営を武力で妨害していったのであろう。神宮文書などによれば、V}の種の地頭の行為は、鹿島神宮の他領地でもかなり多くの事例をみいだす事ができる。行方郡の北側の北浦側に展開した加納十二か郷も大禰宜の所領だが、山田郷の龍田余一入道幹実、高岡郷内の飯田文次郎、大崎郷の繁昌彦太郎幹高、同じく鳴井彦七入道、四六郷内の刷沢三郎、石神内の嶋崎五郎、相賀郷の惣領手賀四郎入道・青沼次郎入道・倉河三郎入道など、地頭等が加納の諸郷で、日次御供料物を抑留したり、給主分の下地を押領したりしている。また潮来の対岸に位置していた用重名も、大禰宜中臣氏の経営下にあったが、大嫁氏・鹿島氏・小幡六郎太郎入道・馬渡入道・東条氏などに押領され、極めて深刻な状況下におかれていたようである。ところで大禰宜中臣高親が、これら社領内の紛争を提訴させた雑訴決断所とはいかなる組織であろうか、雑訴とは主として土地関係の訴訟を