ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

いう。鎌倉期、朝廷における土地関係の訴訟は記録所・文殿によって取り扱われていたが、幕府の滅亡により、記録所は公家の訴訟の他に、武家の訴訟も引き受けざるを得なくなった。しかし、公家・武家の訴訟を一手に処理することは難しく、}のため、新たに雑訴を担当する専門機関として設置されたのが雑訴決断所である。決断所の設置については、『梅松論』や『太平記』という当時の政治経過を記した歴史書にみえている、新政を代表する役所の一つである。『太平記』によれば、設置さい〈ほうもんれた場所は「郁芳門・左右の脇」とあり、大内裏外郭東面の南端にあった門の側に位置していたという。創設時期については確定されていないが、元弘三年(一三三三)九月頃にはすでに存在していた様である。機構ひしじまは創設時に四番制に編成され、『比志嶋文書』四に収められている雑訴決断書結番交名によると一番の担当を二道とし、各番二ハ1一八人で、総員七O人前後の職員を配属していた。その後翌建武元年八月八番制へと機構は拡大され、『続群書類従』雑部に収められている雑訴決断所結番交名によると一番一道の八番編成で、各番一二1一四人の総員一O七人に達した。ちなみに番の所轄地は、一番が畿内、二番が東海道、番が東山道、四番が北陸道、五番が山陰道、六番が山陽道、七番が南海道、八番が西海道であった。常陸国は東海道に属しているから二番で訴とうにん訟を担当したことになる。番の職員は上流廷臣(大納言以上〉を頭人(長南北朝期の潮来官)として、中流廷臣(中納言・参議)、下流廷臣(弁官級吏僚・法曹吏僚)、武家出身者(旧幕府の奉行人や守護級武士)から構成されている。いうならば上中廷臣は天皇側近グループ・弁官級吏僚は弁官グループ・法曹吏僚と武家出身者は実務担当の下級職員である。そして決断所の判第2章決は牒と下文の形で出されたのである。鹿島神宮の大賀村に対する牒は、建武元年三月の日付であるので、決断所四番制の一番で大賀村の一件が審議されていたことになる。決断所の審議については、「建武記」に記載されており、訴訟手続や裁定の方法・処分について、一Oか条に渡って規定されている。元弘四年正月の規定によれば、諸国諸荘園の狼藷(濫妨)については、諸国の守護・国司からの注進状がきたら、決断所の上卿(最高責任者)は奉行人を選出し、速やかに評定を行ない、天皇へ奏聞しその勅答(天皇の返答)によって裁定されるとある。そして裁定は守護・国司から示された。天皇の裁定に反抗し、城郭にたてこもったり、合戦に及ぶ者に対しては、守護・国司から注進させた。そして都にいる者の場合は、決断所に召し寄せ、地方にいる者の場合は、使節を差しつかわす。それでも裁定に従その後時期を決定して、判決を申し伝える。わない時は、所領を没収し身を断罪に処すると規定されている。}の規定が物語るように、発足後まもない雑訴決断所は、ようやく正月をむかえて機能も整備されつつあったが、依然社会の不安と訴訟の急増にともサt、、~Lなお決断所の混乱は解消されてはいず、判決の趣旨が必ずしも地方に徹底したとはいえない状況であった。こうした流動的な時期に、大賀・大生村の訴訟が、鹿島神宮大禰宜中臣高親によってなされていったわけであるが、大賀・大生両村の一件は、雑訴決断所の所管項目中の「所務濫妨事」に該当すると思われる。大禰宜中臣高親は、大賀・大生両村地頭の大生弥太郎入道道円と子の彦太郎の罪科を記した申状(訴状)に、大賀・大生両村と大禰宜中臣氏の関係を記す具書(証拠書類)をそえて、決断所一番へ提出する。この時、証拠書類として中臣高親が提出したものは、弘安五年将軍家寄進状と正応五年(一二九二)以来の関東安堵下文であった。決断所はこの証拠書類を裁定基準としてとり、地頭大生氏の濫妨停止を決定する。こうして雑訴決断所は、建武六年三月十四日に牒を発し、大禰宜中臣高親の申し分をとる229