ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世旨を常陸国衝に伝達する。}の牒の付筆に「廿」とみえるから、」の決断所の裁定が国街より大禰宜中臣高親に伝えられたのは、六日後の三月中廿日であったようである。」うして大賀村における大禰宜中臣高親の立E場は、建武新政によって保障されることになり一まず中臣高親は、地頭大生道円父子の侵入から、大賀・大生の経営を守れるかにみえた。しかし、現実は大禰宜中臣氏の思わく通りには展開しなかった。すでに武家の勢力は地方に確たる支配を確立しており、たやすく武家の実力をくつがえせるものではなかった。新政の雑訴決断所から「濫妨停止」の裁決を受けた地頭大生弥太郎入道は、その後も大賀村に対して乱暴を続けたのである。このことは鹿島神宮文書にもみえている。同年十二月の大禰宜中臣高親社領井神祭物等注進状案に「一、大賀村大生弥太郎入道々円濫妨事」と記され、大禰宜中臣氏関連の社領とともに大賀村の現況を注進している。」の注進状が十二月の作成であるから、雑訴決断所の裁決後九カ月しでもなお大生氏の濫妨が続いていたのである。}のため大生弥太郎入道は、大賀地頭職を没収されたようで、同文書に地頭とみえない。雑訴決断所条規(建武記正月条)に、決断所の決裁に服従しない者に対する処分がのせられているが、それによると、「不欽用勅裁、構城構及合戦者、(中略)濫妨之本人、厳密可有其沙汰、於在京之輩者、被召決断所、於在国之撃者、差使節、各定日限、沙汰付当給人於下地至下手人者、任法可断罪之由可被仰含、此上猶不道行者、文知意之条有所見者、被収公所領、可被断罪其身」とあり、違反者は所領を没収され断罪に処せられると規定されている。おそらくこの規定が適応されたと恩われる。このように大生・大賀地方は、鹿島神宮の社領にありながらも、なお大生氏の干渉を受け、建武以降もかならずしも安定した状況ではなかった。大禰宜中臣高親はその後、同郡の加納十二か郷そして内小牧村、さらに鹿島郡中の用重名などの地頭等を、社領押暴に関しても決断所へ230訴えている。)ちらの訴訟は八番制決断所の二番にて取り扱われ、同年の十月十八日に雑訴決断所牒が発令されている。こちらも大賀、大生両村と同様、大禰宜中臣高親が勝訴している。決断所は地頭等に、神宮への神用物を抑留するのをやめる様指示している。しかし、比較的支配力の強い大賀村ですら、地頭の乱暴を阻止しえなかった大禰宜中臣高親にl土これらの広範囲に渡る社領の経営はより困難を極めた。前述の建武元年十二月の大禰宜中臣高親の社領井神祭物注進状案に、地頭等の不法行為によって、神宮への諸役奉仕のとどこおりが一層深刻化しているのを目にするのである。