ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第二節海夫注文と潮来建武新政も内在する武家等の不満に的確な施策を打ち出南北朝の抗争下の潮来せず、早くも行き詰りの状態を露呈していった。新政に失望した武家達は、自らの理想を求め足利尊氏に次第に気脈を通じていった。こうして建武二年(一三三五)八月に、北条時行の乱の鎮圧に尊氏が鎌倉へ下ると、急速に新政内の亀裂が拡大し、ついに同年十月、尊氏の反乱によって新政は分裂した。その後、尊氏側と後醍醐天皇側が、都を中心に抗争を繰り返し、建武三年十二月、醐天皇は都をすて吉野へ移りここに吉野朝(南朝)と尊氏等によって擁立ついに後醍された光明天皇(北朝)の対立する南北朝時代へとうつりかわる。抗争は足利氏の北朝の優勢で推移していったが、足利氏の内紛もあり、必ずしも北朝は安定政権ではなかった。}のため抗争は南北朝の対立に、足利尊氏と足利直義の兄弟争いが加わり、対立はいよいよ複雑混迷状態となり、しかも、この抗争は地方も巻き込んでいたので、容易に解決の糸口がみいだせないまま長期化していった。常陸国の場合、こうした南北朝対立の激戦地にあたり、南北朝時代前南北朝期の潮来半にかけて、政治的に引き続いて不安定な状況下におかれた。潮来の位置する震ヶ浦、北浦一帯も、南北朝対立の影響下におかれた地域として、いくつかの記録にその軍事行動をとどめている。延元元年(一三三六)三りょうせん月、宇都宮から陸奥霊山(福島県霊山町)に帰還した北畠顕家(北畠親房くみあげの子)の軍勢に打撃を加えるため、足利氏は汲上宿(大洋村)に軍勢を終第2章結させているのが、飯野八幡宮文書にみえている。}の軍勢はその後北上し、五月南朝の陸奥における最大の拠点霊山城を攻撃すぺく、椎葉郡中前寺(福島県浪江町)へ進軍し、さらに行方郡安子橋(福島県原町市)へと南朝軍と転戦している。また、暦応元年(一三三八)九月、北畠親房は子の顕信・結城宗広らとともに義良親王(後醍醐天皇の子、後の後村上天皇)を奉じて、伊勢の大湊を出航し東国へむかつた。途中暴風雨に遭遇し船団はばらばらになったが、北畠親房の乗船は東条荘内(現在の東村と桜川村地域)へ漂着する。親房は神宮寺(桜川村)へ入り、早速陸奥の結城親朝へ援軍を要請し、神宮寺城と阿波崎城(東村)を連係することによって、常陸の南朝勢力の挽回を画策する。}れに対して北朝の佐竹勢はすばやく反撃に転じ、十月五日に霞ヶ浦北岸の鹿島氏族などともに、ついで阿波崎城も陥落したので親房は、霞ヶ神宮寺域を攻略している。浦を渡り小田治久の本拠小田城へ移動している。}の頃の霞ヶ浦、北浦の一帯は、震ヶ浦南岸に南朝勢力があったため、両軍攻防の一地点とされ、政治的にも軍事的にも不安定な状態であった。しかし、震ヶ浦、北浦などの水上交通は、さらに発展していたようである。すでに網野善彦氏がこの付近における内海と外海を結ぶ水運を指摘されているように、内海をとりまく水上の往来は、確実に成長していたようである。すでに鹿島社大船津・府中高浜・信太荘そして香取の地には定期市が存在していたように}れらは水上交通によって相互に結びついていたのであろう。すでに前述した如く潮来の津には、長勝寺鐘銘に「客船夜泊常陸蘇城」とみえるように、船舶の往来で活況を呈する津を想起できる。}の頃には潮来の他に、延方そして鹿島の大船津、さらに下総の神崎など、津の中にも都市的性格を帯びてくる所が現われてくる。ところでこのような潮来、延方などの津が発展する下地に、水上交通の要衝に位置していたことが考えられるが、当時水運の担い手は231