ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世漁民遥であり、彼らは海夫と呼ばれ、霞ヶ浦・北浦などの津に広く分布していたことが香取文書にみえている。中この海夫が記録に登場する最も古い例は、現時点において平安時代中E期まで遡れる。書道の大家として著名な権大納言藤原行成の日記『権記』の長保元年(九九九)十月二十六日の条がそれである。「大弐奉上九穴胞、松浦海夫取手也云々」と記載され、肥前国(長崎県)の松浦の海夫が、九穴のあわびを採っていたことを伝えている。海夫の名称は意外と古いことが分かる。震ヶ浦、北浦付近では、香取文書の貞治五年(一三六六)の大禰宜長房安堵申状案により、応保年間(一二三i六一一)にはすでに海夫の存在を確認できるので、少なくとも霞ヶ浦・北浦付近の海夫は、平安末期までその起源を遡れる。ところで霞ヶ浦・北浦などの漁民を支配したのは、鹿島神宮と香取神かもみおや宮である。神社と漁民の関係をみると、京都の鴨御祖神社と摂津国長州御厨(兵庫県尼ヶ崎市長州)の漁民の関係が明らかにされている。関東でも伊勢神宮と、下総国相馬御厨および安房国東条御厨の漁民関係がある。特に長州御厨の漁民の場合、神社側は漁民に宮役・国役免除の特権を与ぇ、他との漁場争いの時は、朝廷より宣旨(天皇の命をうけて作成される公文書)を引き出して保護を加えたりする。これに対して漁民達はひつぎみにえ「日次之御費」として、鮮魚を京の神社へ毎日朝夕届けた。そして他にけ日いしも「雑事」を勤めた。漁民達は検非違使(警察、訴訟、裁判などを取りあつかった役人)の取締りを受けない特権を与えられたが、その反面神社の私的警察力によって支配された(河田光夫「親驚と海夫」『真宗研究』第二十八輯)。震ヶ浦・北浦付近の漁民の場合、建長七年(一二五五)八月の摂政太政大臣家珊朝政所下文(「鹿島神宮文書」「茨城県史料中世編I』)によると、神宮神主は「立網」「引網」を伝統的に知行し、鹿島神宮が古来より漁業支配を行なったことを物語ってくれる。「立網」「引網」が、具232体的に如何なるものか知るよしもないが、少なくとも神宮神主には、海夫に対して一定の権利を有していたことは確実である。海水と淡水の入り混じるこの水域の豊かさを思う時、「立網」と「引網」のもたらす物の大きさは、神宮にとって決して小さくはなかったはずである。それが故に、文書中に「先例に任せて」とみえるように、}の「立網」と「引網」の権利が、早くから神宮の掌握する所となったのであろう。海夫達はこの「立網」と「引網」などに従事することで、神宮の支配を受けていたと思われる。一方、香取神宮では、伝統的に神前へ大量の魚や鳥を供えたようで、その供え方に関して本宮録司代の香取豊敏著『香取宮年中祭典記』に、図を入れて詳細に記載されている。}れは明治四年(八七一)の著であるが、その供物奉納の先例の古さをうかがわせる。供物としての大量の魚の備進は、津の海夫の調達によって賄われたのである}のことは香取文書(『千葉県史料(内海)うちのうみのかいふ宜長房譲状に「一、中世』)の至徳四年(一三八七)大禰(供祭料)(書)ぐさひれうの文じょに見えたり」と記載あり、供祭料の文書とは、供物備進に関する書類のことであろう。震ヶ浦付近の海夫が、}の文書で香取神宮の供祭料の調達に係わっていたことが確認される。このように霞ヶ浦・北浦水域の海夫達は、鹿島・香取両社の強い支配下に存し、魚備進・「立網」「引網」などを始めとする種々の負担を両社にはたしていたのである。ところで霞ヶ浦・北浦水域の海夫を記した記録は、残念ながら現在の所ほとんど残っていない。僅かに香取神宮所蔵文書の中に八通を残すのみである。これらの内、貞治五年(二ニ六六)の大禰宜長房安堵申状案により、香取神宮の海夫支配が「応保・長寛i治承」(一一六一1八O)以来の伝統に基づくものであるという。以来鎌倉期を通じて海夫達は、香