ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

取社の大禰宜の統制下に置かれた。魚備進などの供祭料の催促は、大輔宜の管領によって行なわれたが、実際は海夫所在の津を知行する者が徴収し、それを神宮へ送進したものであろう。後にこのことは、津の知行者と大禰宜聞に争いをおこす背景とも思われる。南北朝期に入いると、中央政府の不安定さから、地方の地頭・土豪らの武士勢力の活動が活発化してくる。彼らは南北朝対立による地方の混乱に乗じて、支配基盤の強化を計っていく。殊に震ヶ浦周辺は、南北朝の抗争地にあたり、津の知行者の多くは、海夫に対しても支配を強め、香取社の意に反する行動を示してくる。海夫の知行者等は、海夫からの課税をめぐって神宮大禰宜中臣良房と対立し、貞治五年(一三六六)四月と応安五年(一三七二)十一月の二度に百一って紛争に発展する。海夫の管領者の大禰宜中臣長房は、大禰宜長房安堵申状写(『千葉県史料中世編』香取文書)によると、氏長者(関白二条良基家)へ訴えている。}の際証拠書類として長房は、長者宣正文や御下文案文などを一緒に送り、海夫に関して長房の譜代相伝進止(昔から引きついだ権利)と主張している。}れに対して同年五月八日に、関白二条良基家御教書写(同前)と同年八月八日に藤氏長者二条良基宣写(同前)が発せられ、海夫に対する神宮の正統性を藤氏長者が公認している。応安五年の訴訟は、同年十一月九日付の藤氏長者二条師長宣写(同前)によって確認され}の時は室町幕府にも訴訟を起こしている。同南北朝期の潮来年十一月十四日付の室町将軍足利義満家御教書(同前)は、「関白家執り申されるにつき、吹嘘有る所なり」とみえ、将軍足利義満は、関白家(藤氏長者)の決定を遵守している。その後、幕府の命は安富大蔵入道道徹と山名兵庫大夫人道智兼の二名の連署で、海夫知行者へ伝達される。第2章香取文書(『千葉県史料中世編』)によれば、応安七年(一三七四)五月二十五日・六月二十一日・九月二十七日と、少なくとも三度に及んで、世帯府の意向が伝達されるが、一向に神宮の海夫支配は好転の兆しがみえなかった。香取文書中の応安七年の安富道徹等連署奉書と、同名奉書写の六通がそのことを物語っている。海夫知行者の反抗は極めて強固であった。この間、五月二十五日付と九月二十七日付の連署奉書写には、「注文一通遣わす」とある。}の「注文」がいわゆる海夫注文と呼ばれるものである。この海夫注文により、海夫の所在する津とその津の知行者(地頭)が判明する。現在、海夫注文は僅かに八通を確認するだけであり、極めて貴重な記録である。)れらの海夫注文を図にまとめたのが、第ElU図である。この海夫所在の津の比定に関して、過去に数名の業績がある。まとまった物として最近では、網野義彦・河田光夫両氏の研究がある。また町村史でも、玉造町史・神栖町史などに海夫注文が取り上げられている。それらによると海夫の所在地の津は大体一致するが、なお、(河向)「川むかひの津」など所在地不明の津ゃ、比定地に関して見解の相違する津もみられる。特に「ひらはまの津」「うしほりの津」などは、諸説あり見解は定まらないが、歴史的に重要な津である。なお、震ヶ浦・北浦付近の海夫の津は、}の海夫注文に記載分で全てを網羅しているとは限らない。}の海夫注文が海夫税の未進を対象としていること、そして香取社以外の海夫の津(例えば鹿島社や豪族の支配する津)も存在していた可能性もあるので置く必要もある。)の海夫注文記載以外の海夫の津も念頭に入れてさてこの海夫の分布をみると、海夫の所在地が、鹿島社の所在地付近と鹿島社領そして鹿島社に関係する地に目立つのに気がつく。地形的観点からすると、内海と外海の接触地域にも多く海夫の分布がみられる。ここで取り上げた海夫の所在地が、香取社の支配下のものという限定さ233