ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
ところでこれら津の海夫達は、香取・鹿島両社へ負担を海夫の知行者と潮来おっていたと前述したが、香取社に対しては、海夫税を進納していた。」の海夫税は、魚備進を始める諸役のとであろうが、具体的には明らかではない。そしてこの海夫税の徴収・送進を行なうのが、津の知行者たる地頭達であったと思われる。地頭達は、それぞれ自分の領地付近の津を知行していた。津の知行者に関しては、小竹森淑江「中世香取における津の支配|海夫注文の分析から」(『一錯日本文化研究』二号)があり、下総国関係の海夫知行者の分析を行なっている。海夫知行者の表をみると、「水原の津」が小栗越後の知行となっているような、一部例外的な部分もあるが、ほぼそれぞれの領地付近の津と、関係している事が確認できる。潮来地域の津の知行者としては、「いたくの津」「ふなかたの津」の両津に嶋崎氏の姿がみえるのが注目される、嶋崎氏は常陸大援氏行方支族の一派で、隣地牛堀の島崎(牛堀町島須)を本買とする領主である。行方氏の開祖者といわれる行方次郎忠幹の子に景幹があり、その二男の高幹(「民経記」紙背文書には孝幹とみえる)が嶋崎氏の開祖とされている。しかし嶋崎氏の動向は孝幹が行方郡内に地頭として存在した後、文献的にはほとんど確認されない。ようやく鹿島神宮文書(『茨城県史料中世I』)の建武元年十二月の大禰宜中臣高親社領井神祭物等注進状案に「石南北朝期の潮来神内太田村嶋崎五郎」とあり、鹿島社領の石神郷内太田村(現、麻生町矢幡付近)にその姿をみい出す。太田村は嶋崎氏の本貫地の北方に位置し、北浦沿いに面し、海夫の「土古津」の北隣に存在していたが、嶋崎五郎はこの村の地頭であった。嶋崎五郎は社領へ侵入し、神宮大禰宜と第2章対立していたが、}の頃すでに嶋崎氏は北浦沿いに勢力を伸張し、少なくとも一村の地頭職を有していた事がわかる。しかし、嶋崎氏と潮来の関係は定かではなかった。ようやく潮来の地に嶋}の海夫注文により、崎氏が勢力を有した事が明らかになる。嶋崎氏の潮来進出は、鎌倉幕府当知行滅亡からさ程遠くない頃であろう。海夫注文に「いたくの津志まさきの」知行分おそらく鎌倉幕府滅亡により北条得宗の支配が消えると、とあるから、その混乱の間隙をぬって嶋崎氏は、潮来へ勢力を伸ばしたのであろう。もともと、この地は行方景幹の勢力下におかれていたから、嶋崎氏からすれば旧領へもどったという事である。}うして、南北朝期に潮来の地は、北条得宗の支配から嶋崎氏の支配へと変転していった。そして嶋崎氏の勢力はしだいに潮来地域に浸透していく。海夫注文によれば「ふなかたの津」も知行しているから、潮来の北西境の「しまさきの津」も含めて、嶋崎氏は潮来南西部から牛堀に至るまで勢力を有していたことになる。この潮来の津を知行した事は、嶋崎氏にとって大きな意味を有していた。潮来の津とならぶもう一つの延方津は、注文によれば「信方」と記されているが、残念ながら知行者が記載されていない。この津も鎌倉末期北条氏との係わりを想定され、非常に注目されるので惜しい。らに延方の津の付近に位置した「江崎津」も、知行者の記載はない。さV」の「江崎津」は北浦と霞ヶ浦の接触地点に位置し、この辺より「内海」が全体に眺望できたであろう。そしてこの津の北側に位置するのが「水はらの津」である。この津は小栗越後が知行者と記載されている。この小栗氏は常陸大援民族で、大嫁致幹(多気宗基)の兄弟筋にあたり、吉田清幹(行方忠幹・鹿島成幹の父)らととも大濠氏から分出した一派である。大援七家の一つとして、鹿島神宮の大祭の祭主を勤める鹿島大使役も七年に一度担当している。小栗保(協和町小栗)を本貰地として、小栗氏は主として県西に勢力を有した。現在小栗越後なる人物は他に記録がない。そして、この水原津を知行する契機も不明である。ただ海夫注文には235