ブックタイトル潮来町史

ページ
248/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている248ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世位以出」とあり、他と表記が多少異なっている。何故表記が違うのか、特別の意味があるのか気になる所でもある。ちなみに、「水はらの津中この頃の小栗氏の動向を記すと、建武元年十一月十六日に細川頼春の奉書をうけて、小栗掃部助(重貞)は佐竹貞義とともに、鎌倉建長寺正続院Eの子印の訴訟の裁許(判決)を現地に沙汰している(「円覚寺文書」『神奈川県史料3上』)。}の紛争は建長寺領の常陸国押尾郷内宮山村(現、真壁郡明野町)の田畑一町七段と屋敷二か所を、富山幹氏が押領した件である。小栗掃部助は、宮山氏の押領を排除し、土地、屋敷を子印に返還させよとの旨を当事者へ伝達したのである。また、小栗重貞は『太平記』によると、建武二年七月の北条時行の乱に時行側に加担し、後に時行側の将の名越時兼を斬し、足利尊氏に降服している。これらの行為と「水はらの津」の知行を結び付けるものはないが、鎌倉期を通じて県西に一勢力を有し、建武新政期にも活発な行動をする小栗氏を思うと、「水はらの津」の知行者小栗越後の存在は興味深い。この越後なる人物がこの小栗重貞の一派であるとするならば、重貞の七人の兄弟(重顕、重秀、重家、重行、重清、貞幹、高重など)か、もしくは重貞の息詮重(遠江守と系図にはみえている)あたりか。この「水はらの津」の北側に、「釜谷津」「尾字津」「逢賀」の順に、海夫の津が展開していく。残念ながらいずれも知行者は記されていない。}のような知行者の記載されていない津は、海夫注文の下総・常陸両国全体を通して少ないが、何故か潮来地域の海夫の津に集中して多にちなみに下総国の海夫の津では、僅かに「いとにわの津」(井戸庭の津)のみである。常陸国の津では、「尾字津」「江崎津」「信方津」「鎌谷津」「土古津」「逢賀津」の六か所みえる。これらの内、「土古津」が現在の麻生町に位置しているだけで、残り五か所が現在の潮来町域に位置している。しかも「土古津」は、「逢賀津」の北隣りに位置し、潮来地域と隣接しているから、知行者の記載236されない海夫の津は、下総国の「いとにわの津」を別にして、ほぽ全部である。潮来地域の津は、何故か海夫の知行者の記載が少ない。}れらの津は、いずれも、「海夫注文常陸国」と国名記入の海夫注文には記載されていない。「行方郡内」とある海夫注文にのみ記載されている。いずれにしても、}れら津の海夫達は、漁業を行なうとともに船舶をくり出し、対岸の鹿島、香取、信太荘さらに国府などへ往来していたのである。供祭料・神役の搬送、祭礼にともなう国府役人や神宮の移動、参詣者の輸送など、震ヶ浦、北浦地域の海夫は非常に重要な役割を担った。そのような活動により、「うちうみ」と呼ばれた震ヶ浦・北浦の水上交通は発展していった。この霞ヶ浦、北浦水域の水運の状況は、鳥名木文書中世編I』)の鳥名木国義請文に「抑も信太庄商船々に就き、(『茨城県史料のもし海賊の事有らば、土岐修理亮と談合を致すべき」と記されているように、室町中期頃には、信太庄に商船の往来があり、そのために海賊が出没する程であり、」れらの海賊取りしまりに鎌倉府が躍起となっていた様子がわかる。