ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節潮来郷から出た上人南北朝期、潮来、信方(延方)などの津を背景に、潮来地源宥の出自域は水上交通の要衝として発展していくが、こうした環境下から一人の僧侶が潮来郷に誕生する。後の鶏足寺(足利市小俣)の宗淳房源宥である。「鶏足寺世代血脈」(『群馬県史料資料編中世3』)によると、誕生年代は康永三年(一三四四)頃である。彼の誕生した頃の潮来郷(鶏足寺血脈には「井田子郷」とみえる)は、嶋崎氏の勢力下にあったと思われ、引き続き鹿島社の社領も展開していた。また常陸圏内においては、源宥誕生前年に関・太宝両城の激戦があり、圏内の南北朝抗争の悼尾を飾っている。同年十二月、南朝側の関、太宝両城は陥落しようやく圏内の動揺も回復にむかっていた。そうした社会状況の中で、源宥は成長していくが、彼の出身は如何なるものであったろうか、鶏足寺血脈によれば、彼の両親を次のように記しである。「父ハ福祐慈仁出家人也、観音ヲ信ジ苧ム、即チ堂舎ヲ建立、供養礼拝シケル、毎日普門品三十三巻、心経百ヲ奉読母観音ヲ祈ニ、源宥伝継日課観音経読シム」。源宥の生家は経済的に相当裕福であったよ南北朝期の潮来うで、少なくとも潮来郷では、上級階層に位置していたことがわかる。しかも、両親とも観音経の敬度な信者であったようだ。}のため父は出家し、観音堂を建立して、供養・礼拝を行なった程である。そして毎日欠かさず、普門品(観音経)を三十三巻、般若心経を百巻を読んだという。第2章母も観音信仰に傾倒していた。「堂舎ヲ建立」といい、「毎日普門品三十三巻、心経百ヲ奉読」といい、}れだけのことを実現できる者は、はたして潮来郷にはどれ程いたであろうか。観音堂の規模はどれ程のものかわからないが、庶民の身分では困難ではなかったろうか。それに毎日の供養と礼拝に、観音経、般若心経を奉読するだけの時間的・経済的余裕を考えると、やはり特別な者しか考えられない。惜しむことに源宥の姓は記されていない。}のように源宥の幼少期は、観音信仰と深く係わり合っていた。以降、源宥の観音経の読調は毎日の日課となり、鶏足寺入寺以降も続いていったという。}の観音信仰は鎌倉・室町期に最盛期となるが、もともと平安期も盛んであった。平安期以降、寺院で観音経を講読する法会が行なわれるようになり、一般信者も講中(講衆)として組織化されていった。」れらの講中によって各地に観音堂が建てられた。源宥やその両親が観音信仰に熱心であったことは、}の頃の潮来地域にも広く観音信仰が及んだことを物語るものとして面白い。源宥の父の建立した観音堂は、「井田子郷」につくられたと恩われるから、現在の潮来町潮来あたりに存在したのであろう。しかし、現在その所在は確認さLt、。オ均し}の「井田子郷」では遊戯として、「囲碁」が行なわれ方ていたようで、若年の源宥も好んで「囲碁」に興じたという。このため源宥は人と度々争いを起こした事も鶏足寺血脈にみえている。このようにこの血脈は、潮来の南北朝期の社会の一端を垣間みせてくれる貴重な記録である。その後いつしか源宥は発心し、仏の道へはいる。源宥と小俣鶏足寺彼が最初の修行地として選んだのは、奥州の松島(宮城県宮城郡松島町)と平泉(岩手県西磐井郡平泉町)の地であった。源宥はここにしばらく留まり儒を学んだという。この当時、松島に瑞巌寺、平泉に中尊寺が存在したが、建武四年に中尊寺は、南朝の北畠顕家と北朝の渋川義季が平泉で衝突したため、戦火に237