ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世中E慈@猛-1永仙法橋I房顕法眼おム頼日七}堅範禅慶厳A五慶去神Jし、氷通尊1 4官光道r-l尊@栄朝朝-委成鏡差主民コー俄祐通朝ー「照範賢慶尊慶祐印秀海公尊秀覚光済猷成禅成範{愈差主仁コf云海0...懇足寺学頭職「鶏足寺世代血脈」より作成よって大半を焼失した。残ったのは金色堂と経蔵であった。康永年間238(一三四二1四四)に党鐘の鋳造と一部の修築がなされたが、昔日の面影はなくなっていた。)れらの寺院に源宥が立ち寄ったかは定かでない。その後師を求めて源宥は、随心院十八道をめぐる。こうして二五歳の時に、彼は下野国の鶏足寺(足利市小俣)に至る。この鶏足寺は平安初期の大同四年(八O九)に、東大寺の僧定恵が下野に下って創建したという古剃である(「鶏足寺縁起」『下野国誌』)。最初世尊寺と称し、石仏釈迦像を本尊とし、山王権現を鎮守とした。承平五年(九三五)に端を発した平将門の乱が発生すると、将門追討を命じられた藤原秀郷は、世尊寺定宥鶏足寺法統図l法印に将門調伏祈祷を依頼した。}の事が契機となり鶏足寺と改められる。この時、小俣、粟谷、板倉(いずれも足利市内)が寺領とされたようである。真言宗寺院として興隆をとげるのは、建長年中(一二四九i五じめよう五)に「中興開山」慈猛上人(密厳)の時からである。}の慈猛は建暦元第I-14図年(一二一一)に誕生し、幼少の時に下野薬師寺戒壇院の宥快上人の弟子として、同寺にあったという(「鶏足寺縁起」)。その後、叡山、南都の唐招提寺などをめぐり、寛元二年(一二四四)高野山に登り、金剛三昧院の浄月上人から伝法濯頂を受け、慈猛と称することになったようである。密教と律学を修めた慈猛は、その後鎌倉にあった意教上人頼賢のもとに参じここに意教上人から三宝院流の事相(修法の作法)を受けた。後に慈猛は下野薬師寺の長老となるが、}こで鶏足寺学頭の頼尊に授戒、濯頂を施したことが契機となり、建治二年(一二七六)に慈猛は、鶏足寺の第二五代長老となる(「鶏足寺世代血脈」)。}こに三宝院流事相の分派の意教流が、鶏足寺を拠点に相承されることになった。その後、慈猛を鶏足寺へ招いた頼尊が後をつぎ、さらに頼尊の弟子尊慶が長者を相承していく。この内、慈猛による法流を慈猛流(薬師寺流)、頼尊の法流を鶏足寺