ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

流と呼ぶ。尊慶の時代になると下野・下総・武蔵・常陸に広まり、鶏足寺は関東における真言宗寺院の第一位を占めるに至った。殊に第二七代の尊慶の元には多く門弟が集まり、大いに鶏足寺流は法流を伸張させたが」の門弟の一人に尊猷があり、}の尊猷が第二八代長者となる。源宥が鶏足寺に入寺した時の長者であり、当初源宥は彼の室へ入いろうとした。しかし、当時尊猷は病気をわずらっていたため、源宥を門弟の尊誉の室へ移した。源宥の師となる尊誉は、鶏足寺血脈によると「利根聡敏、一聞千悟」とあり、聡明で賢い人である。彼は羽州山野辺郷の人で、父に付いて十七日法華経を談じ一五歳にして教観大綱要文、経論章疎要文三巻を暗謂したという。その後、二O歳の時に越後山(新潟県上山市)に登り、観学院にて天台宗を学んだが、二四歳の時に鶏足寺にむかい尊猷の門弟となったのである。入室後の尊誉は、終日通夜寝食を忘れて、苦疲を顧みず密教を習学する。そして延文五年(一三六O)、大日経等三部大経ならびに奥疎等を伝授し、後問答印信・七重・四伝・四ケノ秘印等も、悉く面授されるのである。また彼は諸所を遍歴し修業に専進するが、上野国丹生慈悲寺・武蔵国藤田・上野国佐野圧中野神光寺、上総国白井、武蔵国今泉正覚寺、同園長野、同国阿久原などの修学地が、鶏足寺血脈にみえている。}うした修業専念の姿勢は多くの門弟を彼の元に集める契機となったようだ。南北朝期の潮来この尊誉の門弟には、鹿行地方出身者もみえている。源宥と師尊誉「井田子郷」出身の源宥もその一人だが、もう一人鶏足寺血脈に記されている。永誉と称し、血脈には「常陸国鹿嶋海辺人也」とあり、鹿島神宮周辺の人のようである。さらに第2章「尊誉ノ室-一入札学業-一携ぺ病ハ災ウトイエドモ休マズ、精勤終一一功業成ス、南京-一於イテ、花厳、法相等ヲ学ブ、鹿嶋生レ人ナルカ故一一法相ヲ宗旨ト為ス。三論玄・五教章・因明章等学習シ、尊誉-一伝法汀ヲ受ケル。源宥ニ一様祇内作業汀ヲ受ケル。或ハ談ズルニ管弦ハ音律ヲ得ル」と記述されている。永誉なる僧は学定房と号し、学業に携り病をえても休まず、精勤して業を成しとげたという。また彼は奈良にも赴き、華厳・法相両宗も学んだようだが}れは鹿島神宮周辺寺院に、法相華厳・三論などの奈良仏教が影響しているためであろう。この神宮付近に生まれた永誉は、何らかの形で奈良仏教に接する所も多かったのであろう。特に彼は法相宗に関心をもっていたようである。彼は三論玄・五教章・因明章などを学び、後に師より「伝法汀」を受けている。そして、源宥より「聡祇内作葉汀」を受けている。」のように尊誉の門には、「井田子郷」出身の源宥と、「鹿嶋海辺」出身の永誉という二人の鹿行地方の僧が確認されるが、さらに}の血脈にはもう一人の鹿行出身の僧が記されている。源宥が最初門弟に入ろうとした、第二八代長者の尊猷の門弟の厳祐がそうである。源宥が尊猷の室にあれば、兄弟弟子に当たった人物である。厳祐はもともと第二七代長老の門弟にあたり、師の尊慶から付法相続を受けたが、後に老年になり、兄弟子の尊猷の門弟にこれは厳祐が尊慶の愛弟であり、尊慶の多数の門弟中で、なったとある。特に師より保護された事に関係している。尊慶は師孝(師に忠実である行為)である事と法流の弘通のために、愛弟の厳祐に鶏足寺長者を相承させたかったようである。しかし、長者相承は正脈相続に限られ、すでに、正脈に尊猷がいる関係から、厳祐の長者相承は困難であった。そこで考え出されたのが、厳祐を尊猷の門弟とし、正脈としたのである。F)うして厳祐は、鶏足寺中興とされた慈猛以来の道具、聖経等を、悉く相続したという。こうして応安二年(一三六九)三月二十八日、尊猷の入滅により、厳祐は第二九代長者となった。この鶏足寺の法流継承者となっ239