ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世中E尊@猷ATl空頼がお白金@合i尊泉運覚覚覚助自常陸国行方郡/人事(定門坊)(号道場坊)慶件尊海誉汚t尊源成猷慶I羊猷源誉宰コ(覚定房)主巨常陸国鹿鳴海辺人達清就玄誉猷澄』ヨ(定淳房)(号常陸律師)事常陸国井因子郷人「鶏足寺世代血脈」より作成鶏足寺法統図2第I-15図た厳祐は、行方郡出身である。残念ながら郷村名の記載がなく、また厳240祐の姓も明らかでない。当時の行方郡は現在の玉造町の浜から捻木をへて、芹沢あたりが西境であるから、現在の玉造町の北西部を除いた行方郡内のいずれかの地に、厳祐は誕生した事になるが現在不明である。このように潮来を含むその周辺では、鎌倉末期から南北朝末期にかけて、源宥、永誉、厳祐の三名の僧侶を輩出したが、三名はいずれも鶏足寺に師をもとめる事になる。この時期、神宮寺、護摩堂(後に護国院となる)、広徳寺など鹿島神宮関連の寺院には、真言宗の影響がしだいに及んできていた。そうした風潮の中で真言密教に対する関心も高揚し、密教の神髄を求めて、習学修業に励む者も少なくなかったのであろう。鶏足寺はそのような者達に格好の修練の場所を提供したのである。'』‘z-、JJJJ源宥、永誉、厳祐等の活動時期は、鶏足寺と常陸のつながりがまだ希薄ではあった。本格的に鶏足寺の法流が常陸に流入するのは、南北朝末期この潮来地域の三名の僧も、先駆的役に至ってからである。その際に割を担っている。応安七年(一三七四)、尊猷の門弟の祐慶は、厳祐より鶏足寺の法脈を受けている。}の祐慶なる人物は厳祐の弟弟子に当り、当時、常陸国の信太荘内の今泉寺に住し、小田孝朝の保護の元にあった関係から、鶏足寺流は今泉寺へ伝わることになる。さらにこの法脈は、慶昨(尊猷の門弟で祐慶の弟)を経て、至徳元年(一三八四)に祐尊へ伝わる。この祐尊も尊猷の門下であったが、後に常陸の信太荘や田中荘へ来住し、それぞれ、大聖寺・法泉寺の中興となる。)うして鶏足寺流は、南北朝末期頃に信太荘・田中荘を中心に、常陸南西部へ展開していくようである。祐慶にしても、祐尊に授法した慶叫にしても、厳祐が鶏足寺流を授法している事から、鶏足寺流の常陸流入を考える上で、厳祐の存在は興味深い。一方、永誉の流れは、宥誉を経て順誉に伝わる(内山純子