ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第2章年南北朝期の潮来代至徳4年(1387)康応元年(1389)明徳4年(1393)第I-1表源宥上人年譜十八道ヲ伝.25歳時ニ尊猷ノ室ニ至ノレ.時ニ尊猷病ニヨリ尊誉ノ室ニ送ノレ.貞治年ノ初高野山,根来寺ニ登ノレ.霊仏霊社ニテ修錬経行ス.応安年中(1368-74)尊誉ニ随ヒ三宝院流仏汀,議紙秘密等汀ヲ受ケノレ.永和年中(1375-78)文,高野山ニ登ノレ.釈迦南院賢重ニ付ク.疏尺論等学プ.大楽院祐尊ニ随フ.悉曇字記等ヲ学プ.又,根来寺阿弥陀院良承ニ付ク.西院流ヲ受ク.又,同寺虚舎那院賢道房ニ付ク.尺論談ジセシム.文,戒壇院通識上人ニ掲.五教章大疏一巻学プ.東大寺ニオイテ尊勝院,倶舎頒疏,唯識論ヲ学プ.木幡南院ニテ三論玄ヲ読ム.因明三十三過本作法等ヲ兼学ス.永和四年(1378)上州世良団長楽寺無悟和尚ニ掲.山門ノ秘奥ヲ受ク.針加野弘光寺裕尊ニ付ク.憲深僧正流ヲ伝フ.又,諸流印信伝フ.又,応永元年(1394)応永3年(1396)応永4年(1397)応永23年(1416)(報恩院流、三宝院四流のAJ)一を受け、241針加野の弘光寺の祐尊から、意深僧正流喝と山門流の秘奥を受けている。また、寺(群馬県新田郡新田町)の無悟和尚から、殊に上野国方面において、世良田の長楽事松島平泉ニ経行スノレ.奥州ニ留マリ,儒学シテ師依ヲ尋ネノレ.随心院栗崎有勝寺ノ良運ニ付ク.宏教高禅流ヲ受ク.9月18日尊誉円寂ス.師ノi跡ヲ継グ.光恩寺住寺ス.11月近行伝法灯.受者宥光.2月5日梅原光明寺ノ事デ源宥法印地鎮ス.壇等一切道師トナリ地形見回リ始メ.3月18日新立,坊号等ヲ定ム.12月2日卯時立柱. 26日辰時棟上.6月7日大般若読.10月舞木殿,駿河守,法名清満月岩庵主,源宥法印以祈祷師トナス.駒形別当職ニ任ス.1月6日地鎖,鎮壇結界最勝王経.8日本尊安置奉ノレ.正月1日始テ本堂行法等勤行ス.規式ヲ始メ.不動堂建立.年中源宥身心不軽利.7月中病床ニ臥ス. 23日月厳(舞木駿河守)円寂ス.8月1日夜半頓死ニ及プ.暫時出息. 16日世間具等同所帯人々ニ付ク. 20日法流付属等一大事申定24日申刻終ノレ.回し、真言宗諸流の習得にあたっている。?レこノの年、より、鶏足寺の周辺地域を巡をめぐる修業を終え鶏足寺へもどったらニ七八)までには、高野山や南都(奈良)寺諸院を修練してまわる。永和四年(一寺へ移民さらに東大寺へと精力的に諸高野山に登り諸院をめぐり、ついで根来て永和年中(一三i七五七八)には、再び流伝汀・聡祇秘密等を受けている。そし項ったが、源宥は師尊誉に随って、三宝院陸圏内南西域に、鶏足寺流の展開が始ま郡出身の厳祐が長者を相承し、さらに管巾}の頃、鶏足寺長者尊猷が入滅し、行方修練する。応安年中(一三六i八七四)、(一三六二)に高野山へ登り、諸仏諸社に源宥は尊誉の室に入った後、貞治元年の祖となす」とある。衰退していた神宮寺は、順誉によって復興される、が、主として彼は、上野国南東域に鶏足寺派の進出をはかつている。蔵)に「文明中、順誉大僧正法柄を執る。教化益々隆んなり、是を中興源宥は永誉にかかわる事などで、間接的に常陸へ影響をしたと思われ六)頃に、鹿島神宮寺の住持であった。鹿島山神宮寺法脈位碑(護国院順誉は、永誉の法流につながるのである。「東国における仏教諸宗派このの展順開誉』は)文。明年中(一四六九1八この時期に寺勢は活況を呈するという。神宮寺に新たな展開をもたらす