ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世さらに、栗崎有勝寺(高崎市栗崎)の良運から、宏教高禅流を受けている。この間、師の尊誉は、応安二年に高齢の師尊猷から附属を受けて、中所々在々において顕密の書籍を演請する。おそらく高齢による衰弱のたEめ、尊猷の布教が不可能となったのであろう。尊猷は此年の三月二十八日に八七歳で入滅している。その後、尊誉は応安三年に、新田綿打諏訪宮、同四年、下野国佐野庄田治、同六年、武蔵国深谷杉別所薬師寺、同七年、上野国舞木駒形堂と相次いで所々をめぐり、鶏足寺流の興隆に勤めているが、以降もそのような姿勢には変りなかった。至徳四年(一三八七)九月十三日夜、尊誉は病にたおれる。源宥は恵尊と並んで尊誉門弟の双壁であったが、すでに恵尊は本国陸奥の津軽へもどっていたため、源宥は十六日に付弟とされた。}うして十八日に尊誉の入滅にともなって、源宥は師の閉山した赤岩光恩寺の二世となる。}の光恩寺は現在の群馬県邑楽郡千代田町赤岩に位置している。永享十二年(一四四O)、結域合戦の兵火で堂舎はことごとく焼失したという。赤岩光恩寺住持となった源宥は、康応元年(源宥の布教と門弟八九)十一月に伝法汀を勤行する。この時の受者は宥光であったという。}れより源宥は、伝法汀・結緩汀等の大法事を毎年欠かさず勤め、顕密の談義も怠る事なく進めたという。こうした中で明徳四年(一三九三)、鰐口刑部律師朝聞は願主となり、一寺の造営をはかる。これが梅原光明寺であり、鎌倉府二代公方の足利氏満の祈願所とされた。鰐口刑部律師は詳かでないが、上野国佐貫の江黒宝寿寺(巴楽郡明和村)の檀那で、鎌倉公方足利氏満側の人物と考えられる。この宝寿寺は永和二年に、源宥の師尊誉によって、止観の談と大月経流の請が催されている。その様な関係から源宥が地鎮とされたのであろう。早速二月五日には地形を見廻り始め、三月十八日に新立て、十二月二十六日辰時に棟上げとなる。応永元年(一三九四)六月七日大般若経を読み、十一月六日地鎮、八日に本尊を安置とみえる。そ242して応永三年正月十一日に本堂行法等を始める。さらに、願主鰐口刑部律師は不動堂の造営をはかり、応永四年建立している。この光明寺創建に源宥は、一切事を取りしきったが、}のため源宥は光明寺の開山とされた。この梅原光明寺は群馬県巴楽郡明和村梅原に位置するが、赤岩光恩寺の東側にあたり、利根川をはさんで南は埼玉県羽生市に境している。この光明寺造営中の応永元年十月に、源宥は舞木駿河守(法名清満月岩庵主)から祈祷師に請われた。}のために源宥は舞木駿河守より駒形の別当職に任命されている。}の舞木氏は上野国佐貫荘内の国人のようで、応永二十三年十月、鎌倉で上杉禅秀の乱が発生すると、禅秀側に加担しているのが「鎌倉大草紙」にみえている。ちなみにこの乱で舞木宮内丞は、禅秀側の形成が劣勢となると、応永二十四年五月十三日に幕府側へ転じ、禅秀の婿岩松満純を捕えて鎌倉へ送っている。この宮内丞と舞木駿河守の関係は明らかではないが、駿河守の没したのが応永二十三年の七月二十三日と鶏足寺世代血脈にみえることから、或は子息の可能性も考えられる。いずれにしても舞木氏は、}の頃、鶏足寺の南方地域における実力者の一人であったろう。舞木駿河守の祈祷師に源宥が要請されたのは応安七年に舞木駒形堂にて、源宥の師尊誉が布教活動を行なった}とも関係していると思われる。}の尊誉の布教などを契機に、鶏足寺流と舞木氏のつながりがしだいに深まっていったのであろう。そして、}の関係をさらに発展させたのが源宥であったと思われる。こうして舞木氏の祈諮問師となった源宥は、舞木氏の保護を受けることとなり、駒形堂の別当を兼務することで、舞木地方に法流を浸透させ、さらに周辺地域にも進出する好機をむかえる。}のように源宥は、尊誉の後をついだ