ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

後二九年間にわたり、鶏足寺流を上野国の南東地域へ広めていた。そして、応永二十三年中、病により源宥は、身体が不自由になったようで、七月中に病床についたとある。}の病床の最中、七月二十三日に彼の信者舞木駿河守が死去している。鶏足寺血脈には源宥の最後の状況を、次のように記している。「八月十一日夜半、頓死-一及、暫時出息覆心-一、十六日世間具等同所帯人々ニ付、廿日法流付属等一大事申定暴、廿四日申魁終駕」とある。源宥は八月十一日の夜半に、急に死にかかったが、したという。まもなく息をふき返したという。十六日に源宥の所持仏を門弟等に分配たとのこと。そして二十日に、法流の付属を決める大きな事が行なわれ}れは源宥の後継者を決定するもので、門弟中で最も重要な話であった。結果は慈宥を後継者とする事に決した。源宥弘-1秀企威栄五L南北朝期の潮来L五五英第2章.「慈こうして四日後挙コ(昭厳一房一)主t上総国吉永住人#九武州萩沢郷E金光寺別当事(覚仙房)」臣、梅原光明寺遍照坊太田平嶋住栄梅原月輪坊事(春一一坊)雷鳥佐野人太田堤郷延命寺住寺印(如玄房)(岡辺能化)四国ノ人ド(頓覚坊)常州人王国田圧祭米金剛寺伝法汀写(号小輔律師)qf太田村君生土、太田村君ノ永命寺住愛(是俊坊)tt下総州下河辺木立光明院伝法事(交禅房)(神光坊)E下河辺狐塚法汀ヘ干(祐乗房)3周防国人』弓(号按擦使律師)1幼名度玉丸慈父秦内左衛門尉伊賀守朝勝悲母藤原竹毛二女....ゅ尊誉窪より転じた者「鶏足寺世代l加脈」より作成の二十四日の申刻(午後五時から六時)に源宥は入滅する。掠宥の門弟は多いが、鶏足寺世代血脈にみえるのは一二名である。V}のうち猷弁(祐乗房)の周防国(現在の山口県の南部)、宥印(如玄坊)の四国等を筆頭に、国外出身者がかなり多い。その弟子の出身地は、ほぼ関東中央に一様に分布している。源宥時代の鶏足寺が、関東における真言寺院の中心を占めたことを物語っている。}れら多数の門弟中で、春祐乗、如玄、大覚は「四天」と呼ばれ、有能な人物であったという。特に祐乗は師の布教をよく助けたようで、仏事・造営に励み、談義、調論、上首、問答に精通したようである。また、師に対する奉仕も欠かさず、事細に渡って師の身辺を世話し、冬夜には薪炭をもとめたり、夏日には米麺を食事にだしたという。}のように秀才律儀な祐乗に対し、源宥は信頼を厚くし、自分の後継者にしようと考えてもいたようである。しかし、祐乗は早死してしまった。そして、}の他の有能な門人にも早死したり、他国へ出ていく者があったという。こうした中で源宥の後継者となったのは慈宥で、当時四十四歳であった。慈宥は按擦使律師と号し、鶏足寺法統図3鶏足寺流初祖の慈猛の末葉という。俗姓を秦氏といい、父は秦内左衛門尉伊賀守朝勝、母は藤原氏女竹毛の二女とある。幼名慶玉丸と称したという。慈宥は最初尊誉の門弟となり、至徳四年八月二十四日、歳の第I -16図時に尊誉の室へ入ったようだ。源宥からすると弟弟子にあたる。慈宥は武家出身者であることもあり、尊誉の期待は大きかったようで、その養育も他と異なったという。慈宥が源宥の門弟になるのは、応永九年二八歳の時で、五年間の越後国賀茂庄下篠の長福寺における習学の終了により、帰国してからである。}の年、慈宥は源宥から、大日経奥疏、妙浄上人印可等を伝授されたが、年末に病にかかり、以来三年間に渡り病床にあった。}の問、師の源宥は東奔西走し、病気平癒のため医療と祈願243