ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三章室町・戦国期の潮来地方第一節潮来地方の社会と文化洲崎の船越地蔵で知られる行方普門院は、正式には竜雲行方普門院をめぐって山普渡寺と号するが、」の寺院はもと潮来に位置していた。水戸藩の二代藩主徳川光聞の寺院整理によって、元禄十五年(一七O二)に現在地に移築された。}の行方普門院は、もと荘厳寺と呼ばれ、天台宗の寺院であったという。室町期に乗賀によって再興され、真言宗へ改宗されるに至ったのである。乗賀は小幡の宝薗寺(新治郡八郷町小幡)の三世件賀の付弟に当る(『新編常陸国誌』)。行方普門院の中興開山となった乗賀の師は、小幡の宝薗寺の住持であったということが分かる。小幡の宝薗寺は行方普門院の真言宗化に影響していた室町・戦国期の潮来地方のである。ところで宝薗寺とは如何なる寺院であろうか。鎌倉時代末期、常陸南西部から北下総に百一り、真言宗の広範な展開がみられる。)の時に常陸へ流入したのが、地蔵院流実勝方の真言宗の法流である。この地蔵院流がんぎょうかた実勝方は、室町時代中期に至り、常陸北半に展開する意教流願行方の法流と並び、常陸、北下総における真言宗の二大勢力に成長する。その目第3章ざましい発展の起源にあたるのが小幡の宝薗寺であり、当時は寺名を報思寺と称した。}の地蔵院流実勝方の法流を受けた寺院の血脈をみると、きまって「乗海|寿仁昨日」と、法流相承の次第がみられるが、それは宝薗寺が、地蔵院流実勝方の常陸、北下総における中心寺院として存在したからに他ならない。ところで地蔵院流実勝方の法流は、醍醐寺西南院の実勝によって打ち立てられ、その後、禅意を経て乗海へ伝わる。}の乗海は鎌倉時代の人物で円月房と称し、志筑寺(現在の千代田町上志筑にその遺跡がある)などを中心に活動していた(小松寺文書「願行流血脈」『茨城県史料中世編E』)。弟子の寿仁がさらに受け、そして宝薗寺へ寿仁が入ったのを契機に、宝薗寺は新たな展開を始める。現在、宝薗寺の法流開山(寺院の法流を最初に導入した者)は、寿仁があてられているが、それは、寿仁の入寺によって地蔵院流実勝方が、宝薗寺に定着したことを意味するものであろう。その後、宝薗寺は、寿仁の弟子の昨日の代に地蔵院流実勝方を基調とした真言宗寺院の体裁を整えたと恩われる。行方普門院の中興開山の乗賀は}の昨日の孫弟子に当り、師の昨賀の兄弟弟子には、祐尊、賢昨らが確認されている。祐尊は大聖寺(土浦市永国)、法泉寺(土浦市大岩田)、南円寺(新治郡出島村加茂)のいわゆる小田四か寺と呼ばれる寺院の法流開山とみえる。また、賢昨の方は門下の宗恵が五宝寺(下妻市)、良専が東福寺(つくば市)、栄尊が下総の大方郡今里の談義所と関係している。このように、乗賀による行方普門院245