ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世と考えられる。古高の鹿島吉田神社には数枚の棟札が残されているが、そのうちの宝暦十二年(一七六二)の棟札墨書銘によると、応永二十年中(一四一三)、島崎彦四郎と妻は社殿の修造にかかわり、修築費用を負担したと記載されている。この棟札は江戸中期頃のものであるが、古高のE地が海夫所在の「ふなかたの津」を含んでいることから、この津の知行は島崎氏であることより、この棟札の島崎氏の記載はすで難いものがある。またこの付近における、島崎氏の支配後退を伺わせる様な記録もみえない。以上のような事から島崎氏の潮来との係わりは、室町中期の応永年間頃も引き続いていたと考えられよう。一方行方普門院の前身、荘厳寺の所在地という牛堀町上戸は、)の頃「木田見郷」に位置していて、この「木田見郷」に隣接して「島崎郷」が存在していた。「島崎郷」は島崎氏の本貫地(発祥地)に当り、さらに応安六年の海夫注文にみえる「島崎津」を南端に有し、島崎氏の軍事上、経済上の基盤と目される所である。)の隣郷で荘厳寺の所在した「木田見郷」も、長国寺の由緒からしでも島崎氏の影響下にあった事は想像に難くないから、荘厳寺に対して島崎氏が、何らかの関係を有しても不思議なことではない。寛文三年間基帳によると、応安三年(一三七O)に荘厳寺は、上戸の小野詰に建立されたという。その後、島崎作右衛門の子永徹は、」の地域の海浦が悪竜により、渡海不自由につき、悪竜沈めの祈祷を命じたという。}のため壇をかざり祈祷を行った結果、悪竜は沈み航海が静かになったとみえている。ようにこの開基帳の記述によれば、島崎氏と荘厳寺の関係の一端を想起出来る。さらに荘厳寺の移動先の潮来の石塔場は、長勝寺の東側にあたり、現在の潮来小学校の敷地に隣接しているが、当時は応安海夫注文により島崎氏の「潮来津」支配が確認される津に位置していた。}のように荘厳248寺の関連地は、島崎氏の勢力下に存した地域と重複している。現在までに、島崎氏と荘厳寺・行方普門院を結びつける痕跡は見つかっていないが、島崎氏による荘厳寺の移築の可能性も否定出来ない。少なくとも島崎氏が潮来地域の寺社に、少なからず影響を及ぼしていたことがうかがい知れる。正長元年(一四二八)荘厳寺は潮来へ移されると、北郡小幡(八郷町小幡)の報恩寺(現在の宝薗寺)の三世件賀の付弟乗賀が招かれたと寺伝にある(『新編常陸国誌』)。この時に真言宗に改宗され、竜尾山普門院と改称されたという。中興開山となった乗賀は「成尊||義範||勝覚||定海|覚海耕雲院隆恵医一ゴ一自国慎重|寿一国昨日間|大楽院f大楽院明本房ィEE担件賀同|」と、「成尊||範俊|||厳覚||宗意||実厳阪榊同実円段階博全孝信宥祥自室鱗谷東山定長官仁髄昨日剛12町|乗賀」という法流を相承していた。乗賀は地蔵院流実勝方の法流を相承するほかに、安祥寺流なども授法していたのである。行方普門院に相承されていったのは、基本的に地蔵院流実勝方であったろうが、安祥寺流なども弟子尊賀(行方普門院の二世)に相承されたのであるが、その実態は明らかではない。乗賀より安祥寺流を授法したことが確認される者に良覚がいる。良覚が師乗賀より、安祥寺流を相承した際の血脈が、六地蔵寺文書(『茨城県の史料中世編H』)中に残されている。永享三年(一四三一)十一月六日付け乗賀授良覚印信がそれである。印信とは師より法流を授法したことを証明するものである。乗賀作成の印信は、}の一点しか確認されていなL、。}の印信には、端裏書に「奥巻相伝血脈大如良覚」と記され、良覚に授法された法流の相承しだいが明されている。ただ授法場所の所在