ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

地が記載されていないから、乗賀がどこで良覚に授法したか確定できなぃ。乗賀が良覚に授法した時期は永享三年十一月六日のことであるから、乗賀の行方普門院中興開山後の三年目のことにあたる。}の頃行方普門院は移築造営も完了し、真言宗寺院としての組織もしだいに整備されつつあったろう。おそらく良覚は、行方普門院となって最初頃の弟子であったようである。そのことは良覚がこの乗賀の門弟になる前に、下総国白井の千寿院(佐倉市井野)にあり、少なくとも応永二十九年(一四二二)十一月十八日から応永三十三年十一月七日にかけて、亮尊から授法されていたことが確認されるからである。}の時に亮尊から受けた良覚の印信は六地蔵寺に伝存し、亮尊授良覚印信がそれである。}の白井の千手院は、もと蓮花院という寺院が付近にあり、それを井野へ移したものと伝えられている。三宝院流の一派意教流願行方の流れをうけているが、常陸圏内へ広ゅうたいまる佐久山方とは宥雛の時代に分かれ、「源真|澄清i澄道|澄秀l澄海澄覚亮尊」と相承される血脈を有している(「千手院血脈」)。そして白井の千手院は、「千手院道場」と亮尊授良覚印信にあるように、道こかかんじようゆいぎかんじようこの道場で良覚は、許可濯頂と磁紙護頂を伝授さ場機能を有していた。室町・戦国期の潮来地方れるが、この印信により良覚は、少なくとも応永三十三年十一月七日まこの千手院にあって修学に励んでいたことがわかる。おそらく良覚は、行方普門院が閉山すると程遠くない時期に、普門院の山門をくぐりで、乗賀の門弟となったようである。乗賀が良覚に授法した安祥寺流は、東密(真言宗に伝わる密教)三十六流の一つ、野沢十二流の一つ、小野三流の一つにあたり、厳覚の付法弟第3章子宗意が創始した流である。常陸圏内においては、小幡宝薗寺の開山寿仁(理日坊)が、高野山の定恵より受法したものと、わかるのである。の六地蔵寺に乗賀の門弟であった良覚が、いつの時期か関係することになる。これは六地蔵寺に、乗賀より良覚にあたえた印信が存在することから確認される。乗賀より良覚が、安祥寺流を受けた背景は知る由もないが、少なくとも良覚が六地蔵寺と係わりをもったことで、宥祥以来二つの流れとなって常陸国内へ入った安祥寺流は、ようやく六地蔵寺にて合流をみるのである。延方の鹿島吉田神社には、寛永七年(一六三O)の鳥居造応永二十年の御輿修造立時の棟札を最古に、昭和十六年(一九四一)の拝殿畳替時の棟札に至る近世・近代の棟札二十余枚が保存されて、'30、U3qその中の一枚で、宝暦十二年(一七六二)の御輿修造時の棟札(高さ四三・二センチメートル、幅二二・七センチメートル)の墨書銘文中に注目すべき語句が記されている。つまり、「応永廿突巳ヨリ至元亀三壬申百五十六年、元亀壬申ヨリ至延宝六戊午百五十年(中略)応永甘美巳島崎彦四郎殿夫婦-一テ先年之御輿朽損ル故修造ス(下略)」と見えている。V}249延方の吉田神社棟札第I-19図