ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世この銘文の意味を考えてみると、第一点は、かつて古高に鎮座していたと伝える(社伝)鹿島神社の御輿が、応永二十年(一四一三)以前に造立中されており、いたみが目立ってきたので、」の年に島崎彦四郎夫婦が皿修理費用という経済的負担を請負って新調したものと解釈することができる。第二点は、古高の鹿島神社の社殿の修造等に関わる何等かの出来事が、応永二十年から延宝六年(一六七八)までの聞で、元亀三年(一五七二)という年にもあったことを想定することができる。しかし、第二点については、それを裏付ける史料のない現状においては、推測のみにとどめざるを得ないのである。一方、第一点の解釈が成立するとすれば、}の一点の棟札史料によって、従来知られていなかった島崎彦四郎の事績として、応永二十年における古高の鹿島神社の御輿修造という事実を付け加えることができるのである。また、彦四郎の人物比定を『郷土うしぼり』所収の「島崎氏系図」に拠って試みるならば、応永十一年六月四日に四十八歳で没した島崎氏九代の左衛門尉満幹の二男で、上杉禅秀の乱(応永の乱)の時、兄大炊介重幹(太郎安定)と共に鎌倉公方足利持氏方に味方して、その軍勢に加わり駿河国佐原で応永二十三年に討死したと伝えられる次郎重時が彦四郎とも称したとすれば、年代的にも符合するものと思われる。茨城県南部における板碑について、既に昭和初期に、服板碑は語る部清道氏が『板碑概説』で、分布地図によって示されたように、武蔵(埼玉県)から常陸(茨城県)の南西部まで広がる「武蔵板碑」と、下総(千葉県)から常陸の南東部にかけて分布する「下総板碑」という二種類の板碑が存在し、その分布の境目が、およそ震ヶ浦沿岸部であることも知られていた(『茨城県史中世編』)。250二種類の板碑の大きな違いは、武蔵型が秩父産の緑泥片岩(青石)でできており、板状にきちんと整形しているのに対して、下総型(常総系とも称する)が筑波産の黒雲母片岩でできており、不整形であるという点で、石材と外形の違いに特徴的に現われている。さらに近年になって、下総型については、紀井弘子氏が、平板状で頭部、側面も加工され、二条線をもっ「下総型板碑」と、大型で不整形の自然石に党字や銘文を彫りこんだ「常陸型板碑」とは、形態的に大きな相違点があると指摘している(「武蔵型板碑と常総系板碑」『茨城県史研究』五二号)。板碑の存在する地域の特性を考察する上でこの指摘は重要であると考そして、千々和到氏は、長年の板碑研究の成果に立脚して「あるえる。地点に板碑があるということは、そしてその板碑にたとえば文永元年という銘があったとすれば、さらに、その板碑が昔からそこにあったことがわかれば、そのことは、その文永元年という年に、秩父から石がそこに運ばれるような流通ルlトがあって、板碑を建てた人がそこにいたこと、また板碑を建てるという信仰があったこと、さらに、そこに坂碑を刻む技術も存在したこと、などがわかる」(『茨城県史中世編』)との見解を一不されている。たった一枚の板碑が、地域の歴史を解明する上で、)れほど豊富な情報を包含しているとすれば、絶対に看過することのできない貴重な歴史遺産(史料)であるということができよう。江寺の薬師堂境内に中世の板碑が残されていた事実を江寺の永享板碑をめぐって確認できたのは、潮来町史編さん事業にともなう石仏石塔調査のおかげといっても過言ではない。従来から