ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
鹿島・行方地方に板碑が分布していることは指摘されていなかった点から考えても、大変貴重な歴史資料の発見と位置付けることができるのである。ではどのような板碑であるのかを見てみよう。外形は高さ一九センチメートル、幅七七センチメートル、厚さ八センチメートルの大きな板状の自然石を使用している。表面には、わらび手様式の天蓋と略式化さサ、サク)が中れてない蓮座をともなった阿弥陀三尊の種子(キリlク、央に刻まれ、左右には、造立の目的を示す「右順修者為国神之禰宜夫婦同速成仏、乃至法界平等普利」という銘文が刻まれ、最後には、「永享十三天辛酉八月廿七日、敬白」という年紀が刻まれている(『潮来の石仏石塔』)。この板碑は、銘文等により永享十三年(一四四一)八月二十七日に、国神神社の神宮(禰宜)夫婦の成仏と関係者一同へも仏思があまねく施され室町・戦国期の潮来地方江寺の永享13年の板碑(拓本)第3章ることを願って造立されたことが判明する。また、造立年代の社会的状況を重ねあわせてみると、永享の乱、結城合戦と続く関東の争乱と関わりを有している可能性もあり、その点では今後のさらなる研究を期待でこれ一点のみでは、江寺の永享板碑の歴史的位置付をする上で若干材料不足の感もあるので、次に周辺町村の板碑の分布状きる資料でもある。況について見ておこう。神栖町では二基の常総系板碑が確認されている。一基は、賀の真言宗で本明寺とも称した大慈院旧墓地にあり、頭部を山形に整形し、条線を刻んだ小型の下総型板碑である。長方形の身部中央に阿弥陀知来の種子(キリlク)が刻まれ、上部に天蓋、下部に蓮座はあるが銘文等は刻まれていない。もう一基は、息栖の神宮寺遍照院跡の墓地にあり、黒雲母片岩製で、横幅も広く不整形な外観をしており、高さ九0センチメlトル程の常陸型板碑である。長方形の碑面中央に阿弥陀如来の種子(キリーク)が天蓋と蓮座に固まれるように大きく刻まれ、蓮座の両脇に観音菩薩(サ)と勢至菩薩(サク)の種子も刻まれ、いわゆる阿弥陀三尊をあらさらに種子の左右に「永和二丙辰十月七日、権律師頼誉」「丈石仏奉権律師頼誉逆修善根:::」の銘文が刻まれている。わしたものである。の銘文により、頼誉という僧侶が生前に死後の冥福を祈って、南北朝時代の永和二年(一三七六)十月七日に造立した逆修板碑であることがわかる。つまりこの板碑は、千々和氏が指摘しているように、さまざまな情報を提供してくれる大変貴重な歴史資料の一つなのである。第I-20図鹿嶋市でも二基の常総系板碑が確認されている。二基とも佐田の真言もう一基は南北朝時代の応安五年(一三七二)の年紀が刻まれ、線刻で山形を描き、天蓋と蓮座の中央に宗十王堂の境内にあり、一基は無銘で、阿弥陀如来の種子(キリ1ク)が刻まれたものである(『神栖の歴史251普及